第13話 「まだ」
1
先週の金曜、定時を五分ほど過ぎたころ、帰り支度をしていると、同じ部署の足立さんも席を立って上着を羽織った。
足立さんは三期上の先輩だ。
ふと目が合ったので、軽く会釈をして「お疲れ様です」と声をかける。
すると、そのまま通り過ぎるかと思った足立さんが、俺を呼び止めた。
「もう帰る?」
「ええ」
短く答えると、足立さんは気負いのない調子で言った。
「一杯付き合えよ」
「いいですね」
深く考えることもなく、俺は軽く応じた。
会社を出て並んで歩きながら、どこへ行くのかと尋ねる。
足立さんが東京駅の周辺で飲もうと言うので、てっきり行きつけの店に連れていかれるのかと思った。
「よく行く店でもあるんですか」
そう聞くと、足立さんは少し肩をすくめるようにして言った。
「いや? 東京からのがお前も帰りが楽だろうと思っただけだ」
その答えに、俺は思わず軽く笑った。
なんだ、そういうことか、と思う。
先輩らしい気遣いに、肩の力が抜けた。
そうして足立さんと連れ立って入った店は、金曜の夜らしく、スーツ姿の会社員たちであふれていた。
にぎやかというより、熱気と酒の匂いと話し声でむせ返るような空気だ。
そのざわめきの中に身を滑り込ませた。
金曜の夜は、どこも似たような熱を帯びている。
二時間ほど飲んだが、特別めずらしい話をしたわけじゃなかった。
仕事の話も出たには出たけれど、明日からの何かが劇的に変わるような内容ではない。
聞き流してしまっても困らないような、ありふれた愚痴や、部署の空気の話や、取引先の癖の話。
そんなものばかりだった。
それでも退屈しなかったのは、足立さんが話のうまい人だからだろう。
相槌の打ち方も、話題の転がし方も自然で、気づけばこちらも思ったより口を開いている。
先輩と飲む席にありがちな妙な緊張もなく、俺は思っていた以上にその時間を楽しんでいた。
店を出ると、夜気はひんやりしていた。
さっきまで店の中にこもっていた酒と熱気が肌から抜けていくようで、俺は無意識にひとつ息をつく。
「じゃあ、俺は大手町から乗るから」
足立さんがそう言って、コートのポケットに手を入れた。
「そうなんですね。今日はありがとうございました」
「おう。気をつけて帰れよ」
軽く手を上げる足立さんに会釈を返して、俺たちは店の前で別れた。
そこから東京駅へ向かって歩き出す。
金曜のこの時間の駅周辺は、人の流れが絶えない。
仕事帰りの会社員、旅行者らしいキャリーケースを引いた人間、酔って上機嫌の集団。
雑多な人波が、同じ方向へ流れているようでいて、実際はばらばらに散っている。
その中で、不意に見覚えのあるコートとバッグが視界に入った。
俺は思わず足を止めた。
和倉じゃないのか。
少し離れたところを歩く後ろ姿だったが、見間違えるはずがなかった。
あの形のいい肩の線も、癖のない足取りも、会社で何度も見てきた。
声を掛けようとして、喉の奥で止まる。
和倉は、男と一緒だった。
隣を歩いているその男は、和倉と親しい距離感に見えた。
背が高く、均整の取れた体格だった。
肩が触れるほど近い。
仕事帰りにたまたま一緒になっただけ、というには、並んで歩く空気がなめらかすぎた。
誰なんだ、と思った。
月城の人間には見えなかった。
少なくとも、俺の知っている顔ではない。
同じ会社で仕事をしていれば、どこかで見かけたことくらいはありそうなのに、その男にはまったく記憶が引っかからなかった。
歳は和倉と同じくらいか、少し上くらいか。
落ち着いた色のコートを着ていて、派手さはない。
和倉の隣にいるのが自然に見える程度には、場馴れした雰囲気のある男だった。
俺は人の流れの中に立ち尽くしたまま、ふたりの背中を見ていた。
どうしても、目が離せなかった。
やがて信号が変わり、人波が動く。
ふたりの姿は流れに紛れて、少しずつ遠ざかっていった。
追いかける理由なんてない。
そんなもの、あるはずがない。
そう思っているのに、視線と足だけはふたりを追いかけていた。
東京駅に近い、バーの中へふたりが入って行った。
少し離れたところで、ため息が出た。
何をやっているんだ、俺は。
帰ろうかとも思う。
なのに、足が動かない。
しばらく、迷っていたけれど、結局俺はバーのドアを開けた。
2
店に入ると、カウンターで飲んでいたふたりがそろってこちらを見た。
二十時を少し過ぎたばかりで、客はまだまばらだった。
和倉はすぐに俺に気づき、流れで同じ席で飲むことになった。
隣にいた男も紹介され、名刺交換まで済ませる。
表面上は穏やかに応じながら、俺は相手の顔をさりげなく観察していた。
話の流れで和倉との付き合いの話になって、口をついて出た言葉は嘘ではない。
「入社した時だから、もう七年だよな」
自分でも、わざと言ったのだとわかっていた。
七年。
数字にすれば長い。
だが実際に親しくなったのは、入社して二年以上たってからだ。
部署は違っていたが、仕事で一緒になる時期があった。
それから話すことは増えたものの、その頃の俺には付き合っている相手がいたし、和倉にもほどなく恋人ができた。
だから、ふたりきりで飲みに行くような仲ではなかった。
それでも俺は、お前より俺のほうが和倉のことを知っていると、そう言ってやりたかった。
くだらない見栄だと自分でも思う。
けれど、あの場ではどうしても引きたくなかった。
たぶん理由は単純だった。
あの男が、和倉のことを「楓」と呼んでいたからだ。
織田というその男は、拍子抜けするくらい普通に話せる相手だった。
感じは悪くないし、受け答えも落ち着いている。
変に気取ったところもなく、年相応に常識のある男だった。
だからこそ、胸のざわつきはうまく収まらなかった。
鼻につく自己顕示欲でもあればよかった。
あるいは、俺を露骨に警戒して不機嫌になるような男だったなら、まだわかりやすい。
そうしたら俺も、こんなやつのどこがいいんだと、遠慮なく軽蔑できたのに。
そうできないことが、かえって面白くなかった。
和倉がイタリアでの話を持ち出したとき、俺はもういたたまれなさで、笑っている顔を保つのがきつかった。
機内でどうだったとか、フィレンツェで何を食べたとか、ポルチーニがどうしたとか、そんな話をふたりの間で自然にやり取りされるたびに、苦しかった。
意味がわからなかった。
和倉が出張に出たのは、たしか十月の頭だ。
まだ一か月半しか経っていない。
俺は通算すれば七年間、和倉を知っている。
けれど和倉は、織田のことを「冬吾」と呼んでいる。
それなのに俺は、七年たった今でもずっと「坂上くん」のままだ。
その事実が、何よりきつかった。
時間の長さなんて、親しさの証明にはならないのだと、目の前で突きつけられている気がした。
笑って相槌を打ちながら、俺だけがふたりの間にある時間に入れない気がしてならなかった。
一杯だけで店を出た。
帰り道に何度も浮かんだのは、和倉の表情だった。
織田を見るあの目は、ただ酒が入ってやわらいでいただけには思えない。
もっと自然で、もっと無防備で、少なくとも俺がこれまで見たことのない和倉だった。
それが嫌にに引っかかった。
けれど、まだ一か月半だとも思う。
たったそれだけの時間で、何もかも決まるとは限らない。
俺にはもっと長い、和倉との時間がある。
七年という言い方は半分見栄でも、積み重ねてきた時間そのものは嘘じゃない。
それに、彼女は俺が誘えば、これまで一度も嫌な顔をせず応じてくれていた。
気軽に飲みに付き合ってくれるくらいには、ちゃんと近い場所にいられたはずだ。
まだ、決まったわけじゃない。
そう思いたかったのかもしれない。
確かめる勇気もないまま、俺は都合のいい材料だけを拾い集めて、自分を落ち着かせようとしていた。
3
東京駅に近いあのバーで飲んだ夜から、数日が過ぎた。
あんな場面を見たあとで、何もなかったように和倉を誘うのは、さすがに少し気が引けた。
それでも、確かめずにはいられなかった。
俺が誘ったとき、和倉はまだ来てくれるのか。
それが知りたかった。
昼休み、スマホを手に取ってLINEの画面を開く。
少し迷ってから、いつもと変わらない調子を装って送った。
〈来週、飲みに行かない?〉
これまでなら、火曜なら大丈夫とか、木曜はどうかとか、そんなふうに返ってきていた。
断られることがあっても、たいていは別の日を添えてくれていた。
けれど、返ってきたのは短い一文だけだった。
KAEDE
〈ごめん。今度はやめとく〉
別の日の提案はなかった。
その一文を見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。
確かめたかったことは、確かめるまでもなく伝わってきた気がした。
俺は返信を打たないまま、トーク画面を閉じた。
昼過ぎ、給湯室へ向かう和倉を見かけた。俺は部長室から自分の席へ戻る途中で、その背中に声をかけた。
「和倉、ちょっといい?」
そのまま階上の社員ラウンジへ連れていく。
自販機の前で缶コーヒーを二本買い、一本を差し出すと、和倉は黙って受け取った。
けれど、こちらを見ようとはしなかった。
「最近、俺の誘い避けてる?」
和倉は少し言いよどんだ。
「避けてるっていうか……」
「じゃあ、なに?」
小さく息をついてから、和倉ははっきり言った。
「もう、ふたりで飲みに行くのはやめようと思ってる」
その言葉に、喉の奥が詰まる。
これまでの和倉は、誘えば来るのが当たり前だった。
その当たり前が、音もなく崩れていく気がした。
「織田さんに言われたの」
「それもある」
その返事に、胸の内側がかっと熱くなる。
あの男に、そんなことを言う権利があるのかと思った。
「あの人に言われたから、俺とはもう行かないってこと?」
「違う」
和倉は首を横に振った。
「私も、そう思ってる」
すぐには言葉が出なかった。
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「付き合ってんの?」
和倉は考えるようにまばたきをしてから答えた。
「付き合うとか、そんな話はしてないけど」
「なら……」
言いかけた俺を遮るように、和倉は静かに続けた。
「違うの。私、冬吾が好きなの」
その瞬間、飲みかけのコーヒーが石みたいに重く、ゆっくり胃の底へ落ちていく気がした。
「……いつから?」
「わかんない。気づいたら、好きだった」
七年同じ会社で顔を合わせてきた。
この一年半ほどは、ふたりで食事に行くことだってあった。
それでも俺は、ただの坂上くんのままで、出会って一か月半の男は、もう名前で呼ばれている。
気づいたら好きだった。
そんなふうに言われる相手に、俺はなれなかった。
じゃあ俺は、今まで何をしていたんだろうと思った。
和倉を好きだと自覚したのは、一年前か、もっと前だったと思う。
仕事の愚痴も聞いたし、どうでもいい話で笑ったこともある。
恋人がいないことも知っていた。
自分だって、ずっとひとりだった。
それでも俺は、一度も好きだと言わなかった。
付き合いたいとも言えなかった。
確信がなかったからだ。
もし告げて断られたら、今ある関係まで失うかもしれない。
そう思うと、踏み込めなかった。
だから、彼女の気持ちが少しでも自分に傾いたとわかった時点で動けばいいと、どこかで考えていた。
このままの距離を保っていれば、そのうち自然に何かが変わるかもしれないとも思っていた。
お互い三十代でひとりなら、いずれそういう話になることだってあるのではないかと。
時間が味方してくれると、勝手に思っていた。
けれど時間は、俺のために席を空けて待っていてくれるものじゃなかった。
俺が座るはずだと思い込んでいたその場所に、最初から予約なんて入っていなかったのだ。
「俺、まだ――」
「なに?」
和倉が視線を上げた。
「……いや」
結局、俺はそれ以上何も言えなかった。
5
どうやって自分の席まで戻ったのか、よく覚えていない。
気がつけばいつものデスクに座っていて、パソコンの画面だけが白々しく光っていた。
周囲では誰かが電話を取り、誰かがコピー機の前で立ち話をしている。
いつもと変わらない午後のはずなのに、そこだけ自分がうまく馴染めていない気がした。
俺は、まだ何も言っていない。
和倉が織田を好きだということは聞いた。
これまで当たり前みたいに続いていた、ふたりで飲みに行くあのささやかな時間も、もう終わりだと言われた。
何年も、近くにいたくせに。
仕事の話をして、どうでもいい雑談をして、誘えば一緒に飲みに行ける程度には近くにいた。
けれど、和倉はもしかしたら、一度だって俺を恋愛の対象として見たことがなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
だったら、言えばいい。
今さらでも、言わないよりはましなのかもしれない。
もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
もちろん、答えなんてほとんど見えている。
和倉が誰を見ているのかは、もう十分わかっている。
それでも、このまま何も言わずに終わるのは嫌だった。
俺はまだ、何も言っていない。
冬の楓 第13話 「まだ」 おわり




