第12話 「これから」
1
レセプションルームを出たとき、時刻はもう二十二時に近かった。
ホールを出てしばらく歩いたところで、冬吾がごく自然な手つきで私の手を取る。
私の中では、まだ小さな引っかかりが残っていた。
けれど、その手を振りほどこうとは思わなかった。
ただ、片桐さんに言われたあのことだけは、あとでちゃんと確かめるつもりでいた。
「何食べる?」
冬吾が、いつもと変わらない顔でそう聞く。
「お腹にたまるもの」
「レセプションで食っただろ」
「あれは食べたうちに入らない」
声も顔も、なるべく普段通りを装える。
何も気にしていないふりだって、できているはずだった。
それでも頭の中では、片桐さんの言葉が消えてくれない。
半年。
ふたりで食事。
最近はあまり。
冬吾さん。
断片になった言葉が、入れ替わり立ち替わり浮かんでは沈む。
私は、自分が今どこを歩いているのかも、ちゃんとわかっていなかった。
冬吾はそんな私をよそに、通り沿いの店先をいくつか見やって、ひとつに目を留める。
気づけば先に立ってドアを開け、当然みたいに私を中へ促していた。
入った店は、昼に来てもよさそうな和食屋だった。
向かい合って座り、注文を済ませる。
私は水のグラスを手に取って、一口だけ飲んだ。
ここへ来るまで、私がほとんど話さなかったからだろう。
冬吾も、何を聞かれるのか、たぶんもうわかっている気がした。
「冬吾」
「ん?」
私はグラスを置いて、冬吾を見た。
「片桐さんと、半年くらい前から会ってたの?」
「うん」
あっさりした返事だった。
「ふたりで?」
「うん」
「何回くらい?」
「そんなに多くない。片手で足りるくらい」
そこで少し間を置いて、冬吾は付け足す。
「毎週みたいに会ってたわけじゃない」
「半年あったのに?」
「仕事で、今日みたいな演奏会に行って紹介されたのが半年前だけど」
「すぐに連絡先を交換したわけじゃないし」
「俺から誘ったことはない」
「私と知り合ってからも会ってたんでしょ?」
今度は、返事の前にほんの少しだけ沈黙があった。
「会った」
その一言で、ひどく気分が悪くなった。
飛行機で隣に座って、フィレンツェで食事をして、東京に戻ってからも会った。
あの時間のあとに、冬吾は片桐さんとも食事をしていたのだと思うと、胸の奥がざらつく。
私たちは、あのころまだ付き合っていたわけじゃない。
何か約束をしていたわけでもない。
冬吾が私に嘘をついていたわけでもない。
そんなことは、ちゃんとわかっている。
それでも、嫌なものは嫌だった。
理屈で片づけられるなら、とっくにそうしている。
でも実際は、頭でわかることと、気持ちがおさまることはまるで別だった。
「片桐さん、冬吾のこと好きだよね」
「……たぶん」
「気づいてた?」
「そうかもしれない、くらいには」
その返事を聞いた瞬間、ああ、と思った。
冬吾が坂上くんのことを私に聞いたときと、同じだ。
たしかだとは言い切れなくても、そうかもしれないとは思っていた。
見えていなかったわけじゃないのだ。
「冬吾は、片桐さんのこと好きだったの?」
「好きだったわけじゃない」
「じゃあ、なんで会ってたの?」
冬吾は言葉を選ぶように間を置いてから、静かに言った。
「最初は、何度か会えば好きになることもあるかもしれないと思ってた」
その言葉が、胸の奥に鈍く沈んだ。
つまり冬吾は、片桐さんを恋愛の相手として見ていたということだ。
ただの知り合いとして食事をしていたわけじゃない。
最初から、そういう可能性ごと含めて会っていたのだとわかってしまう。
「……そうなんだ」
やっとそれだけ返すと、冬吾が続けた。
「でも、好きにはならなかった」
「楓が好きだと思ってからは、もう片桐さんと会うのは違うと思った」
その言葉に、息が詰まる。
嬉しいのか、苦しいのか、自分でもよくわからなかった。
今、冬吾が好きなのは私だ。
それはちゃんと伝わってくるのに、その前に片桐さんが恋愛の候補としてそこにいたことが、どうしても胸に引っかかる。
私はすぐには返事ができなかった。
納得したわけじゃない。
責めきれるわけでもない。
そのどちらでもないところで、気持ちだけが置き去りになっている。
言葉にしようとすると、何を言っても違う気がして、私はただ黙るしかなかった。
黙り込んだ私を見て、冬吾が言いにくそうに口を開いた。
「怒ってる?」
「……かなり」
短く答えると、冬吾は息をついた。
「ごめん」
「何に謝ってるの?」
口にしてから、自分でも少し冷たい言い方だったと思った。
でも、そう聞かずにはいられなかった。
「片桐さんと会ってたこと?」
冬吾はすぐには答えなかった。
「それだったら、違うと思う」
「あのころは、まだ私たち、付き合ってたわけじゃないし。私だって坂上くんと飲みに行ってたから」
そこまで言って、私は腹が立ってきた。
「でも、あのときは言ってほしかった」
「あのとき?」
「坂上くんのこと聞いたとき」
冬吾が黙る。
「私には、坂上くんが私のこと好きなの知ってたかとか、ふたりでよく飲むのかとか聞いたでしょ」
「だったら冬吾も、自分にも同じような人がいるって言ってくれたらよかったのに」
冬吾は少しのあいだ何も言わなかった。
「……それは、そうだな」
「今日、片桐さん本人から聞くまで、私、何も知らなかった」
「ごめん」
「それは、謝っていい」
2
この前、冬吾だってこんな気持ちになったのかもしれないと思った。
坂上くんと偶然バーで会った、あの夜みたいに。
「でも、私も冬吾のこと、あんまり責められないんだよね」
伏せていた目を上げて、冬吾を見る。
「冬吾と知り合ってからも、坂上くんとは飲みに行ってたし」
「俺と会うようになってからも、あいつと飲んでた?」
「うん。水曜に坂上くんと飲んで、金曜に冬吾と飲んだ」
冬吾が少しだけ眉を動かした。
「七年、ね」
「それ、七年って言うほどではないよ」
「どういうこと?」
「入社して七年なのは本当」
「でも、ちゃんと話すようになったのは、二年以上経ってから」
「じゃあ、五年?」
「それも違うかな」
私は小さく首を振った。
「お互いに恋人がいる時期は、ふたりでは会わなかったし」
「そうなんだ」
「うん。よく誘われるようになったのは、この一年半くらい」
「だから、冬吾が思ってるほど、ずっと特別だったわけじゃない」
「あいつが楓を好きなのも、わかってただろ」
「なんとなく、そうかもしれないとは思った」
答えながら、なんだか急に力が抜けた。
冬吾が片桐さんのことをわかっていたように、私だって坂上くんの気持ちにまったく気づいていなかったわけじゃない。
そこまで同じなら、ふたりして似たようなことで機嫌を悪くしているのが、馬鹿らしくも思えてきた。
「……同じことしてるよね」
私が言うと、冬吾もうなずいた。
「そうだな」
「だから、冬吾だけが悪いわけじゃないし、仕方ないってところもあると思う」
自分で言いながら、それが半分は本音で、半分は言い聞かせているだけだとわかっていた。
「だって、お互いにこうなるとは思ってなかったから」
冬吾は目を伏せて、それから静かに言った。
「俺と会ってても、楓がやっぱりあいつのほうがいいと思えば、俺の誘いには乗らなかっただろうしな」
「冬吾も、そうでしょ?」
そう返すと、冬吾はまっすぐ私を見た。
「そうならなかったから、今こうなってる」
その言い方がずるいと思った。
そんなふうに言われたら、責めきれなくなる。
「でも、やなんだもん」
自分でも子どもっぽいと思いながら、口をついて出た。
「冬吾のこと好きだっていう他の誰かと会うの、ヤダ」
言ってしまってから、今度は自分のほうが目をそらしたくなった。
こんなふうにむきになっているのを知られるのは、少し悔しい。
けれど冬吾は笑わなかった。
ただ、すぐに返ってきた声は、思っていたよりまっすぐだった。
「俺だって嫌だ」
3
「これまでのことは、もう仕方ないと思う」
そう言ってから、私は冬吾を見た。
本当は、仕方ないなんて簡単に割り切れてはいない。
でも、今さらそこを責め続けたって、時間は戻らない。
「私だって、同じことしてたし」
冬吾は何も言わずに、私の次の言葉を待っていた。
だから私は、息をひとつ飲んでから聞く。
「でも、これからは?」
「ん?」
「片桐さん」
冬吾は、そこでようやく意味をのみこんだみたいに声を漏らした。
「ああ……」
「これから、また誘われたら?」
聞きながら、声が強張る。
答えはもう決まっていてほしいくせに、口に出して確かめるのはやっぱり怖かった。
「会わない」
でも、返事は思っていたよりずっと早かった。
私はその一言に、ほっとしていた。
「私が嫌だって言ったから?」
確認するみたいに聞くと、冬吾は少し考えてから答えた。
「それもある」
「でも、俺ももう、ふたりで会おうとは思ってない」
うれしいというより、よかったと思った。
続けて冬吾が聞く。
「楓は?」
「行かない」
答えると、今度は冬吾が私を見る。
「俺が嫌だって言うから?」
「それもある」
私はそこで笑いそうになって、でも笑わなかった。
「この前も断ったし、私も、もう行かなくていいと思った」
坂上くんと飲む時間が嫌だったわけじゃない。
気楽で、楽しい時間だったのは本当だ。
でも今は、それを冬吾が嫌だと思う気持ちもわかる。
でも、冬吾が嫌だとわかった上で、それでも会いたいかと聞かれたら、もう違った。
たぶん私は、思っていたよりずっと、冬吾のことが好きなんだと思う。
4
お腹は空いていたはずなのに、箸はあまり進まなかった。
私はぶりの照り焼きを箸の先でつつきながら、我ながらわかりやすい顔をしていると思った。
たぶん、今の私はかなり拗ねていた。
向かいに座る冬吾はそんな私を見て、呆れたように言った。
「腹減ってたんじゃないの?」
「誰かのせいで、味がしない」
「俺?」
「じゃあ、片桐さん?」
口にしたあとで、自分でも意地が悪いと思った。
でも、冬吾は言い返すでもなく、私を見たままだった。
「彼女は悪くない」
私がそう言うと、冬吾は小さく息をついた。
「やっぱり、俺か」
その言い方がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
ほんの少しだけど、胸の奥に固まっていたものがほどける。
さっきまであんなにむすっとしていたのに、こんなふうに笑ってしまう自分が単純で悔しい。
それでも、笑えたことがうれしかった。
店を出ると、夜はもうだいぶ更けていた。
人通りもまばらになった道を歩き出すと、冬吾が自然な顔で私の手を取る。
私は一瞬だけその手を見て、それから何も言わずに握り返した。
まだ全部を水に流せたわけじゃない。
嫌だった気持ちがなくなったわけでもない。
しばらく黙って歩いていると、冬吾が私の名前を呼ぶ。
「楓」
「なに?」
「まだ、怒ってる?」
「ちょっと」
正直にそう言うと、冬吾は苦笑した気配を見せた。
「明日も?」
「知らない」
「困ったな」
「困ってて」
そう返しながらも、私は彼の手を離そうとはしなかった。
むしろ、離したくなかった。
たぶん私は、まだ拗ねている。
でも同じくらい、こうして並んで歩けることに、ほっとしてもいた。
夜の静かな道を、私たちは手をつないだまま歩いた。
怒っているくせにその手を握っている自分が、なんだか愛しかった。
冬の楓 第12話 「これから」 おわり




