第11話 「知らない世界」
1
ヴェルティアpresents ストリングス・プレミアムナイト。
開場は十八時。開演は十八時半からだ。
私は控室で、楽器を膝にのせたまま、弦を一本ずつ確かめていた。
指先で触れ、軽く弾いて、音の揺れを聞く。
張りがわずかに甘い気がして、ペグをほんの少しだけ回した。
いつも通りの作業だった。
何度も繰り返してきた、本番前の儀式みたいなものだ。
それなのに今日は、落ち着かない。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
そうすると少しはましになると思ったのに、胸の奥のざわつきは薄くならなかった。
会場には、もう半分以上の観客が入っているらしい。
あと三十分。
その事実を頭の中でなぞっただけで、時間が急に輪郭を持つ。
ぼんやりしていた焦りが、はっきりとした形になって胸に居座る。
私はテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばした。
画面は静かなままだった。
通知はない。
LINEも来ていない。
分かっていた。
今さら来るはずもないのに、つい確認してしまう。
見たところで何かが変わるわけでもないのに、指は勝手にトーク画面を開いていた。
最近、冬吾さんとのLINEは少しずつ変わってしまった。
前なら、私が誘って予定が合わなければ、彼のほうから別の日を言ってくれた。
すぐに会えなくても、会う気があることはちゃんと伝わってきた。
でも今は違う。
最後に残っているのは、たった一行。
〈すみません。その日は難しいです〉
それだけ。
それを見つめていると、短い文章のはずなのに、そこに書かれていないものまで読み取ってしまいそうになる。
忙しいだけかもしれない。
冬吾さんはもともと忙しい人だ。
仕事が立て込めば、返信が素っ気なくなることだってある。
そういう人だと、私だって分かっている。
だけど、それだけで片づけてしまうには、何かが少しずつ違っていた。
言葉の温度とか、返ってくるまでの時間とか、そういう、説明しようとすると曖昧になるものばかりが、前とは違っている。
何かが変わった気がする、じゃない。
たぶん、変わったんだと思う。
ただ、何が変わったのかは分からない。
私が何かしてしまったのかもしれないし、何もしていないのかもしれない。
彼の中だけで決まったことなのかもしれないし、私の考えすぎなのかもしれない。
はっきりした理由がひとつでもあれば、まだよかった。
でも現実には、決定的なことは何もない。
もう会うつもりはないと告げられたわけでもない。
嫌われたと断言できる出来事があったわけでもない。
ただ、手のひらに乗せた水が少しずつこぼれていくみたいに、確かにあったはずのものが減っている気がするだけだ。
そういう曖昧さが、いちばん苦しい。
自分で勝手に不安になっているだけなら、みじめだと思う。
でも、何も感じないふりをするには、私はもう気づきすぎていた。
スマートフォンの画面を閉じる。
黒くなった画面に、ドレス姿の自分がぼんやり映った。
ひどく冷静そうな顔をしている。
こんなときでも、私はちゃんと舞台に立てる。
立たなければならない。
そう思う一方で、もし今、冬吾さんからたった一言でもLINEが来たら、それだけで胸のつかえが少しほどけるのに、とも思ってしまう。
大丈夫、の一言でもいい。
終わったら話そう、でもいい。
そういう言葉を待っている自分が、少し情けなかった。
控室の外で、人の動く気配がする。
スタッフの足音。
遠くで重なる話し声。
開演前特有の、張りつめた空気がドアの向こうから伝わってくる。
私は楽器を持ち直した。
弦は整っている。
音もきっと大丈夫だ。
整っていないのは、私のほうだけだ。
それでも舞台は始まる。
客席の明かりが落ちれば、私は片桐美紗ではなく、音を届ける人になる。
そうしているあいだだけは、余計なことを忘れられるかもしれない。
そう思いたかった。
けれど胸の奥では、開演のベルを待ちながらも、別の音を探している自分がいる。
たった一件の通知音を。
ドアをたたく音がして主催者側のアテンドから呼ばれた。
「美紗さん、そろそろお願いします」
私は立ち上がって、控室を後にした。
ベルが鳴る。
幕が上がる。
今日も、私は全力を尽くす。
2
盛大な拍手に包まれて、公演は幕を閉じた。
最後の余韻がまだ身体の中に残っている。
張りつめていたものがほどけて、私は大きく息をついた。
肺の奥にたまっていた熱が、ようやく外へ逃げていく。
幕が下りる。
私は楽器を抱えたまま舞台袖へ下がった。
照明の熱気から外れると、急に現実に引き戻される。
本番を終えた安堵と疲労が、一気に押し寄せてきた。
そこへ、事務所のアーティスト担当の女性が足早に駆け寄ってくる。
「美紗さん、今日もすごかった。さすがです」
息を弾ませながら笑って、それから少し声を潜めた。
「協賛企業の方が、ご挨拶に来られています」
「そうですか。どちらに?」
「控室です。そのあと、懇親会にも参加されますので、軽くで」
「わかりました」
短く答え、私は唇に仕事用の笑みを戻した。
控室には、すでに数人の協賛企業の関係者が集まっていた。
ひとり、またひとりと声をかけられる。
今夜の演奏が素晴らしかったこと、この企画にふさわしいステージだったこと、来場者の反応もとても良かったこと。
私はそのたびに丁寧に頭を下げた。
ありがとうございます。
そう返す声は、驚くほど滑らかに出た。
もう長いこと、こういう場にいる。
どんなに疲れていても、どんな気分でも、求められる受け答えくらいはきちんとできる。
全員を見送ると、今度はレセプションルームへ向かった。
ドアが開いた瞬間、華やいだ空気が流れ込んでくる。
グラスの触れ合う音、抑えた笑い声、上品に整えられた談笑。
舞台の緊張とは違う種類の神経を使う場所だ。
私は一歩足を踏み入れて、すぐに目だけで彼を探した。
いた。
その姿を見つけた瞬間、胸の奥がわずかに熱を持つ。
来てくださったんだと思った。
それだけで、今日ずっと心の底に沈んでいた不安が少しだけ浮かび上がる気がした。
今すぐ駆け寄りたかった。
来てくださってありがとうございますと、自分の口で言いたかった。
たったそれだけのことなのに、こんなにも会いたかったのだと、自分で驚くくらいだった。
けれど、そんな勝手はできない。
協賛企業の関係者との写真撮影を求められ、VIPとの挨拶が続く。
私は呼ばれるたびに足を止め、求められる笑顔を向けた。
「今夜は本当に見事でした」
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
「また次回も楽しみにしています」
「はい、励みになります」
口では淀みなく応じながら、意識の半分はずっと別の場所にあった。
冬吾さんを、目で追ってしまう。
以前来てくれたときも、少しのタイミングを見つけて声をかけてくれた。
だから、今夜もそうだと思っていた。
そのときだった。
彼は私のところへ来る前に、誰かを見つけたようだった。
人の間をすり抜けるようにして、大股でその相手へ向かっていく。
ためらいのない足取りだった。
私は反射的に、その先を目で追う。
「楓」
そう呼ぶ声が、ざわめきの中でも不思議なくらいはっきり聞こえた。
楓と呼ばれた人が振り向く。
冬吾さんは、その人を見ていた。
私が今まで一度も見たことのない、やわらかな表情で。
仕事相手に向ける礼儀正しい顔でもない。
社交用の整った笑みでもない。
もっと無防備で、もっと近しい、気を許した相手にしか見せないような目だった。
ああ、と思った。
何かが胸の奥に落ちた。
重くて、冷たくて、硬いもの。
鉛みたいなそれが、音もなく沈んでいく。
さっきまで立っていられたはずの足元が、急に頼りなくなった気がした。
息を吸うのを忘れたようだった。
何を見たのか、頭ではまだうまく言葉にできない。
ただ、心だけが先に理解してしまったような気がした。
最近、冬吾さんとのLINEが変わったこと。
誘っても別の日を提案してくれなくなったこと。
短くなっていった返事。
会えない理由が分からないまま、それでも決定的な何かはないと思おうとしていた自分。
その全部が、一本の線でつながってしまいそうで、私はこわくなった。
もちろん、まだ何も決まったわけじゃない。
楓という人が誰なのか、私は知らない。
ただの知人かもしれない。
仕事の関係者かもしれない。
昔からの友人ということだってある。
でも、そうやって冷静に考えようとするたびに、さっき彼が見せた表情が胸に刺さる。
あんな顔を、私は知らない。
知らなかった。
「片桐美紗さん、こちらでお写真を」
声をかけられ、私ははっとした。
「はい」
反射みたいに返事をして、そちらへ向き直る。
笑ってくださいと言われる前に、口元を整える。
頬の筋肉が少しだけ強張っているのが分かった。
フラッシュが光る。
眩しさに一瞬まばたきをして、それでも私は崩れなかった。
崩れてはいけない。
ここには大勢の人がいる。
今の私は演奏を終えたばかりの片桐美紗で、誰かひとりに傷ついた顔を見せていい場所じゃない。
それでも、視界の端でまた彼を探してしまう自分がいた。
冬吾さんは楓と呼ばれた女性の隣で、何かを言っていた。
楓さんが少し困ったように笑い、それを見た彼もまた静かに笑う。
その距離が近く見えた。
近く見えたというより、きっと近いのだと思った。
胸の奥に沈んだ鉛が、じわじわと形を広げていく。
重さだけだったものが、今度は鈍い痛みに変わっていく。
私は手の中で、気づかれないように指先を握りしめた。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
今ここで知った顔をしてはいけない。
今ここで何かを失ったみたいな顔をしてはいけない。
まだ何も聞いていない。
何も確かめていない。
なのに、心のどこかではもう分かっていた。
私が不安だったのは、思い過ごしじゃなかったのかもしれない。
彼の気持ちが遠くなっているのだとしたら、その理由は、きっと私の知らない場所にあったのだ。
「美紗さん、次はこちらへ」
また名前を呼ばれる。
私は微笑んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
今夜一番きれいな顔で。
3
写真撮影も挨拶もひととおり落ち着いたころ、ようやく冬吾さんがこちらに目を向けた。
見つけてくれた、と思った。
その瞬間だけ、気持ちがわずかに浮き上がる。
けれど次の瞬間、その期待は形を変えた。
彼は、ひとりではなかった。
隣には、さっき楓と呼ばれていた女性がいる。
女性の胸元には、月城ホールディングスの来賓証が下がっていた。
冬吾さんとは別の招待枠で来ているらしい。
私はすぐに表情を整えた。
きれいに見える角度も、やわらかく見える笑みも、こういう場ではもう考えなくても作れる。
軽く会釈をする。
近づいてきた冬吾さんは、落ち着いた顔をしていた。
いつも通りといえばいつも通りだったけれど、どこかが少し違って見えた。
私に向ける空気が、薄い膜を一枚挟んだみたいによそよそしい。
「片桐さん、今夜も素晴らしかったです」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の内で小さく目を伏せた。
社交辞令だと分かる。
冬吾さんはクラシックに詳しいわけでもなければ、特別興味を持っているふうでもなかった。
だからこそ、いつもならこんなふうに整いすぎた褒め方はしない。
もっと短く、もっと彼らしい言い方をする人だ。
「来てくださったんですね。ありがとうございます」
私もまた、きれいに返した。
「片桐さん、こちら、月城ホールディングスの和倉楓さんです」
私は楓さんに視線を向け、にこやかに微笑んだ。
ほんの少し間を置いてから、
「楓、バイオリニストの片桐美紗さん」
楓。
その呼び方だけで十分だった。
冬吾さんは私のことを、一貫して片桐さんと呼ぶ。
それが彼らしい距離感なのだと思っていたし、私はそれでもよかった。
私だけが親しみを込めて冬吾さんと呼ぶ、その温度差さえ、いつか埋まっていけばいいと思っていた。
でも彼は、この人を楓と呼ぶ。
その事実が、思っていた以上に鋭く胸に入ってきた。
「和倉さん、覚えておきますね。演奏会のご案内もさせてください」
そう言うと、楓さんは可愛らしく笑って、ほんの一瞬だけ冬吾さんを見た。
それから、私に向き直る。
「ええ、ぜひ」
やわらかい声だった。
感じのいい人、という印象を誰にでも自然に与えられる人なのだろうと思う。
だから余計に、こちらが勝手に身構えていることがみじめに思えた。
この人は、どういう人なんだろう。
恋人だとは紹介されていない。
月城ホールディングスの人間なら、冬吾さんと同じ会社ではないはずだ。
仕事のつながりなのかもしれない。
たまたまここで会ったのかもしれない。
そう思おうとしていたとき、奥から声が飛んだ。
「織田」
冬吾さんが振り返る。
呼んだ相手のほうへ近寄り、何かを小声で交わしてから言った。
その言葉は私に向けられたものではなかった。
「すみません。ちょっと、取引先に挨拶してきます」
楓さんは小さく頷く。
「うん」
その返事はあまりにも自然で、ふたりの間に無理がなかった。
私はそのことに、静かに傷ついた。
冬吾さんは私に軽く会釈だけを残して、離れていった。
少しして、私はできるだけ自然な声で楓さんに尋ねた。
「和倉さん、冬吾さんとは以前からのお知り合いなんですか」
楓さんは気負いなく首を振る。
「そんなに前じゃないんです。一か月半くらいかな」
一か月半。
その短さに、かえって息が詰まりそうになった。
私が冬吾さんと知り合ったのは半年前だ。
半年という時間が、長いとも短いとも言えないことは分かっている。
でも私は、その半年のあいだ、少しずつ距離を縮めてきたつもりだった。
焦らずに、急がずに。
紹介されて、連絡先を交換して、食事に誘って。
何度か会って、少しずつ親しくなって。
そうやって丁寧に階段を上っていけば、いつか私を見る目も変わるかもしれないと、どこかで信じていた。
けれど一か月半で、彼女は名前で呼ばれている。
その事実が、私の半年をひどく頼りないものに見せた。
楓さんは悪気もなく続けた。
「ローマへ行く飛行機の中で一緒だったんです」
「ローマ」
うまく反応できたか、自分でも分からなかった。
「ええ。お互い出張で仕事もあったんですけど、日程もよく似ていたので」
楓さんは懐かしむように目を細めた。
「フィレンツェでお昼をご一緒しました」
私は笑顔を崩さないようにするので精いっぱいだった。
偶然だったのだろうか。
たまたま同じ飛行機で、たまたま現地で予定が重なって、たまたま食事をご一緒した。
それだけと言ってしまえば、それだけなのかもしれない。
でも、そういう偶然の積み重なりが、人を一気に近づけることもある。
そのあいだに。
私が一段ずつ上っていたはずのものを、この人は軽々と飛び越えてしまったような気がした。
そんなふうに思う自分が、浅ましくて嫌だった。
楓さんは何も悪くない。
ただ出会って、親しくなっただけだ。
冬吾さんだって、誰とどう親しくするかを私に遠慮する理由なんてない。
そんなこと、分かっている。
分かっているのに、胸の奥では別の声がする。
半年かけても届かなかった場所に、一か月半で届く人がいるのだと。
私はずっと笑っていた。
笑っていたはずなのに、胸の内側では、乾いた何かがひび割れていく音が聞こえるようだった。
「私も冬吾さんとは、半年ほど前に知り合ったんです」
「そうでしたか」
「何度かお食事もご一緒していただいて」
楓さんの肩が、微妙に揺れた。
楓さんは、私に聞く。
私のことをまっすぐに見て。
「最近も、ふたりで会ってるんですか?」
「最近は……あまり」
「そうなんですね」
楓さんも、私を警戒していると感じた。
それなら、まだ恋人ではないのかもしれない。
そう思いたかった。
楓さんの様子をうかがいながら、次の言葉を選ぼうとしたときだった。
冬吾さんが戻ってきた。
「お待たせしました」
私たちを交互に見て、少しだけ首を傾げる。
「何の話してたんですか?」
楓さんが、ほんの少し考えるような顔をした。
「内緒」
「なんだそれ」
冬吾さんはそれ以上聞かなかった。
私の前だからなのか、さっきまで楓さんと話していたときよりも、言葉が整っているように感じた。
そう思ったところで、後ろから声をかけられた。
「美紗さん、すみません。ヴェルティアの専務がお帰りになるそうなので、ご挨拶をお願いできますか」
事務所の担当だった。
「分かりました」
私はふたりに軽く頭を下げる。
「少し失礼します」
「はい」
冬吾さんが答え、楓さんも小さく会釈をした。
私はその場を離れた。
数メートル先で挨拶を交わす。
今日のお礼や、今後の予定について短く言葉を交わしながらも、意識のどこかは、さっきまでいた場所に残ったままだった。
やがて話が途切れた瞬間、私は何気ないふりをして振り返った。
冬吾さんと楓さんが、ふたりで話していた。
楓さんが何かを言う。
「……悪口」
そこだけが聞こえた。
冬吾さんが笑う。
「俺の?」
楓さんも笑っていた。
さっき私たちの前にいたときとは、少し違う。
冬吾さんの肩から、余計な力が抜けているように見えた。
私がいないと思っているときのほうが、ずっと自然だった。
胸の奥が、また静かに痛んだ。
私は視線を戻して、もう一度笑顔を作った。
挨拶を終え、ふたりのところへ戻ろうとしたときだった。
「こういう立食って、お腹いっぱいにならないよね」
楓さんの声が聞こえた。
「また食い物?」
「だって、物足りないんだもん」
「帰り、なんか食って帰る?」
「うん。食べる」
私は一瞬だけ、足を止めた。
このあとふたりで帰ることは決めていたのか、今決めたのか、もうどうでもよかった。
半年という時間が、あまりにも薄くて頼りないものに思えた。
それでも、冬吾さんの口から何も聞いたわけじゃない。
諦めるなんて、まだできない。
努力は裏切らないと信じてきた。
可能性がゼロじゃないなら、私はまだ、立っていたかった。
冬の楓 第11話 「知らない世界」 おわり




