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隣の助手席から、父のいびきがかすかに聞こえる。
埼玉の事件に目を付けた父は、知り合いの埼玉県警の刑事に連絡し、現場を見るため私に運転を頼んだのだ。
いつの間にか眠っている父を横目で一瞬見て、ハンドルを握る手に力がこもる。
好奇心でこの捜査に首を突っ込んだが、これも仕事の一環だ。事件についての記事を書かなければ、仕事を恵んでくれた編集長から、二度と電話はかかってこないだろう。
記事を書く材料は父から提供される。移動の車中で、これからの展開を少しでも聞き出そうとしていたのに。寝てしまっては話もできないではないか。
しかも助手席で眠るとは、元警察官としていかがなものか。
一時間半ほどで、わたしたちは埼玉県K市に到着した。駅近くのコインパーキングに車を停めて、待ち合わせ場所の駅前まで歩く。
駅に隣接する商業ビルの前で福々しい中年男と出会った。県警捜査一課の棉良刑事だ。父はわたしをアシスタントだと紹介した。わたしたちは、殺害現場のスナックへと向かった。
十分ほどで小さなスナックに辿り着く。ドアの横にある電飾看板には、ゴシック体で【スナック おとね】と書かれている。
棉良が鞄から鍵を取り出しドアを開け、わたしたちは埃が香る屋内に入った。
店内はまさに昭和のスナックだった。赤い絨毯とスツールがカウンターに八脚置かれている。その後ろに、ボックス席が三つ。四人用が二つと、八人用が一つある。
棉良は一番奥のスツールの近くに立ち、床を指差した。そこだけ、絨毯の赤とは違う色味の染みが大きく広がっていた。
「ちょうどこの辺りで倒れていました」
棉良が父に写真の束を渡す。父はそれらから何枚か抜き、残りをこちらに渡してきた。
見ると、被害者が店内で客たちと撮った写真だった。写真の中の彼女は、楽しそうに笑ってはいるがどこか儚げで、そして美人だった。
「殺されたのは、この店の経営者で川登乙音。五十二歳。死亡推定時刻は一昨年の十一月七日午前一時から二時の間。死因は腹部を刺されたことによる失血死です」
「写真を見る限り、かなりの出血量だったようですな」
手元に残した写真を見ながら父が聞く。
「ええ。十七か所刺されていました。この状況から、怨恨の線で捜査を進めたのですが、被害者は特にトラブルを抱えていませんでした。
聞きこみによると、客あしらいがうまく、店の従業員とも良好な関係を築いていたそうです」
「金銭関係のトラブルもなし?」
「時節柄、経営は厳しかったようですが、特に目立ったトラブルはありませんでした」
「殺害される動機が見つけにくいですね」
「おかげで捜査は難航しています」
父は店内をぐるりと見渡す。
「殺害に使われた凶器は分かっていますか?」
「いいえ。科捜研が刺傷から凶器の形状を特定しようとしたのですが、どうやら一般に出回っているものではなく小刀のようなもの、ということしか分かっていません」
犯行現場を一通り見ると、わたしたちは現場から二十キロメートル離れた農業地帯に向かった。殺された乙音の家族――兄夫婦が、その地で農家をしていた。
客間に通され、わたしはペンとノートを手に取った。
「それでなんでまた事件の話を聞きたいなどと」
耕三がこぼすと、棉良が説明した。
「いや、実は東京で起こったある事件と、妹さんの事件につながりがないか、調べているんです」
耕三の小さな目が細くなる。
「東京の・・・。乙音が殺された件とどんな関係があるっていうんですか」
「それはまだ不明です。今日お伺いしたのは、妹さんの人となりについて教えていただきたいと思いまして」
父が話を引き取ると、耕三は鼻を鳴らした。
「それこそ何度も刑事さんたちに言ってきたことだ。まぁいいでしょう。あの子はね、決して他人から恨まれるような女じゃなかった。
高校を卒業してから東京の方に出て、そこから銀座だのなんだので働いて。ほら、よくテレビなんかに出るでしょう、水商売のあれ。何て言うんだっけか・・・クラブだ。そこで働いて、十年くらいして、ふらっと帰ってきた・・・」
耕三がそこで言葉を切って悔しそうに顔をゆがめた。
「取り上げられたんだ。腹を痛めて必死に産んだ自分の子を、父親に。それであの子は東京が嫌いになって戻ってきた」
「子どもを取り上げられた・・・。具体的にはいつ頃ですか?」
この質問に答えたのは、棉良だった。
「二十三年前です」
「いま、その子どもは何を?」
「不明です。被害者の戸籍には記録が残っていませんでした」
となると、その子どもは無戸籍かあるいは父親の戸籍に入ったのだろう。手続きは面倒だが、不可能ではない。
脳内で、父との会話が蘇る。
龍ヶ淵光恒は二十三歳だ。
ペンを握る手に思わず力がこもった。
わたしの疑念は、最後に訪れたK署の会議室で確信に変わった。
そこには、乙音の遺留品が運ばれていた。
乙音の遺留品は、段ボール一つに収まる程度の家財道具と雑誌類のみだった。
父が取り出した雑誌は、ほとんどが週刊誌だ。その中に一冊だけ、週刊誌にしてはやや厚い雑誌があった。
それは月刊の法律系の雑誌だった。パラパラとめくっていた父の手が止まる。覗き込むと、そのページにはその年に任官した裁判官のインタビューが組まれていた。
インタビューを受けた裁判官は、龍ヶ淵光恒。
一通り遺留品に目を通した父は棉良に礼を言い、わたしたちはK署を辞去することにした。
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