10センチ
(承前)
深夜の寝室。
間接照明は落とされ、窓から入る街灯の光だけが、薄く二人を照らす。
昊天はベッドの端に腰を下ろしたまま、
妻の背中を見つめている。
妻はベッドの反対側に座り、
濡れた髪を指で梳いている。
シャワーの後の湿った空気。
薔薇の残り香。
二人の呼吸が、わずかに重なる。
昊天の視線が、妻の肩に落ちる。
やわらかな髪のあいだから覗く首筋。細やかな鎖のネックレスが反射する。
昊天の指が、シーツの上で動く。
一瞬、妻の方へ伸びかける。
——でも、止まる。
妻は気づいている。
背中越しに、昊天の視線を感じている。
自分の指も、シーツの上で動く。
昊天の方へ、わずかに近づく。
——でも、触れない。
二人の指先は、
シーツの上に、10センチの距離を置いたまま。
昊天の喉が、かすかに動く。
息を吐く音が、少しだけ長い。
妻の肩が、わずかに下がる。
安心したような、
諦めたような、
でも温かいような、吐息。
昊天の指が、もう一度動く。
今度は、妻の指に触れそうで触れない距離まで。
空気が、そこで止まる。
妻は目を閉じる。
昊天の指の気配だけを感じる。
昊天も目を閉じる。
妻の吐息だけを感じる。
触れない。
触れようとしない。 なのに、
この距離が、
今は一番近い。
昊天の心の中で、
(……これでいい)
という言葉が、静かに落ちる。
妻の心の中で、
(……ここにいてくれるだけで)
という言葉が、静かに落ちる。
二人はそのまま、
触れずに、
同じベッドに横になる。
背中合わせ。
指先はまだ、10センチ離れたまま。
でも、
その10センチが、
もう「離れている」ではなく、
「そばにいる」になった。
部屋の灯りが、ゆっくり消える。
暗闇の中で、二人の呼吸だけが、
静かに重なる。
それで、
十分だった。




