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名と役割のはざまで~覇道総裁中華財閥ロマンス~  作者: Furi0804
第四章 名の呪い

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第4章番外 三年、空のふち

(承前)


1|ニューヨーク:Analyst Program / 深夜のガラス窓

最初の冬、ハドソン川は鉛色で、窓に映る自分の顔は少しだけ他人に見える。

紙が一枚、机の端から滑り落ちたとき、

上司は顔を上げずに言った。「拾って、もう一度、数字を見直せ」

私は拾い上げ、同じページに三度目の赤線を引いた。

バリュエーションは正しかった。

買収の後に残るのは不動産と負債だけ、という結論も。

ふいに、指が止まる。紙の端に、黒い筋が見えた。

手のひらのどこかがインクで汚れていることに、そのとき気づいた。

それが妙にこたえた。

汚れたのが指先ではなく、紙だったからだ。

深夜のオフィスは均質だ。

キーボードの音、遠いサイレン、窓の反射。


私は小さく書き足す。


——入口。


買収は突然ではない。

その前に、必ず薄い隙間ができる。


私は窓の外に目をやる。

ガラスに映る都会の光はたしかにきれいだが、

そこには道路も橋も見えない。

構造の影だけが、黙って浮いている。


翌朝、上司にメモを渡すと、彼は目を通して言った。

「このディール、やめさせよう。買う側が損をする」

私はただ頷いた。

この街では結論だけが価値だ。

結論に至るまでに何を見て、何を思ったかは、誰も聞かない。


たまに、自分を上から見ている感覚がある。

高い場所から、駒の配置を見るように。


すぐに目を逸らす。


見下ろすな。


まだ、その位置にはいない。


2|シンガポール:PPP / 埠頭の風 / 地図にない矢印


港は止まらない。

赤道近くの倉庫の奥の会議室で、私は黙って聞いていた。

行政、オペレーター、投資家、銀行。

役割はそれぞれ違うのに、話しているのは同じ言葉だった。

「回す」「流す」「止めない」

私は空白に線を引く。

運ぶもの、待っているもの、積まれるもの。

それらが作る目に見えない矢印を、ひとつの表に収めてみた。

順番が崩れると、都市は息を止める。


夜の埠頭は湿っている。

潮の匂いはどこでも同じだが、ここは少し甘い。

ライトの下を、コンテナが静かに運ばれていく。

人の影は薄い。

積荷の影だけが濃い。


「あなた、何を見ているの?」

通訳の女性が言う。

私は、自分のメモを見せた。

いくつかの矢印、優先順位のマーク、矢印の間に置かれた小さな数字。

「順番です」私は言う。「止めないための順番」

彼女は笑って、少しだけ首を傾げた。

「あなたの仕事、紙の上の話に見えて、現場に近いのね」

現場、という言葉が、思ったより重く胸に落ちる。


父の現場、粉塵、杭打ち、夏の光。

遠い。

ホテルの部屋に戻って、私は窓を開けた。

海は見えない。

代わりに、道路があった。

合流、分岐、料金所。

無数の矢印の中に、ひとつだけ太い線を引く。

私は一本だけ、線を太くする。


優先順位。


空から見れば、すべては動線だ。

だが、空は偏らない。


3|香港〜シンクタンク:RA / 事故統計 / 折れない線


研究所の部屋は静かで、紙が多かった。


統計は嘘をつかない。

だが、何も語らない。

だが、その一つひとつに、誰かの朝がある。


事故の折れ線は下がっている。

それは改善を意味する。


そこに名は記されない。

数字だけが残る。

私は資料の端に、橋の図を書いた。


しきい値。

アラート。

復旧時間。


崩れる前に止める。

崩れる前に、止める。

崩れてから止めるのではなく。


「土木出身か?」

教授が言う。

私は首を振った。

「家が少し」

「家か」

彼は笑って、窓の外の高速道路を指した。

「都市は、家だよ。家族のように、放っておくとすぐ拗ねる」


家。


その言葉が、遠くで鳴る。

叔父の顔、役員の背中、屋敷の玄関、冷たい空気。

拗ねたのは、誰だ?

家か、都市か、私か。

夜、宿舎のベッドに横になりながら、私は天井を見た。

目を閉じると、道路が浮かぶ。

薄いひび割れ、雨の水が溜まり、冬に膨張し、春に破裂する。

崩れる前に守る仕組みは、人間を守る。


その年の暮れ、メールが来た。


返信は短い。


唐突ではない。

だが、自然でもない。


私はパソコンを閉じる。


折れ線は、折れなければ美しい。

だが、折れないためには、

誰かが先に気づいていなければならない。


4|帰国:25歳 / 扉


屋敷の扉の前で、私は一度だけ深呼吸した。

扉は、昔より重く感じた。

空気は乾いて、少し冷たい。

長い廊下は、子どもの頃と同じ匂いがした。

「お帰りなさいませ」

低い声。古い声。

誰かの靴音。

私は「ただいま」と言い、

心の中で、一度だけ繰り返した。


三年。


いや、十年だ。


送られ、置かれ、延ばされ、

気づけば、外が当たり前になっていた。

ただ、外にいた十年のうち、

自分の足で立っていたのは、

ほんの三年だったのかもしれない。


三年は、空のふちだった。

上から見ない、しかし全体が見える距離で。

落ちもせず、戻りもせず、

ただ、自分の重さを測る場所。


忙しかった。


仕事ではない。


自分の立ち位置を測り直す作業が。

この家に、この都市に、この名前に。


外にいた。

それは事実だ。


だが、外で見たものは、外のためではない。

崩れないための、やり方を持って戻ってきた。


廊下の先で、古参の役員たちが待っていた。

彼らの背中の線は、若い頃の父の背中と重なった。

私は歩き出す。


私は一歩、内側へ入った。

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