第4章番外 昊天という名
(承前)
###1976年、夏
39年前の夏は、土と鉄の匂いが強かった。
うだるような陽炎の向こうで、龍騰グループ初となる大型高速道路の建設現場が、剥き出しの赤い土を晒していた。
大型重機の唸り声と、杭を打ち込む断続的な金属音。
それは、混乱の時期を抜け出し、この街が「未来」へと無理やり背を伸ばそうとする産声のようでもあった。
現場の指揮所に、一台の黒い車が滑り込む。
降り立ったのは、李承天。
李家の当主として、文字通り「街の骨格」を造り替える重責を担っていた。
「代表、お電話です。……奥様が、先ほど」
秘書の震える声に、承天の歩みが止まる。
額の汗を拭うこともせず、受話器を取った。
短い報告。
天高く昇る龍の年に、病弱な正妻が命を削るようにして産み落とした、
最初で最後になるであろう長男の誕生。
承天は、受話器を置くと、再び現場へ視線を戻した。
周囲の役員たちが「おめでとうございます!」と口々に祝いを述べる。
だが、承天の表情には、父親らしい柔和な喜びは欠片もなかった。
彼はただ、灼熱の太陽が照りつける、どこまでも高い夏の空を見上げた。
雲ひとつない。
底知れぬほどに青く、そして冷酷なまでにすべてを包み込む、圧倒的な広がり。
この土地に、最初の道路を通すために、彼が何千時間も見上げ続けてきた空だった。
(夏為昊天……)
古の書物『爾雅』の一節が、彼の脳裏をよぎる。
「春は蒼天、夏は昊天」
夏空を意味するその言葉は、同時に、宇宙の秩序を司る至高の神の別名でもあった。
「名は、決まった」
承天の声は、重機の騒音を切り裂くように響いた。
「昊天。李昊天とする」
それは、赤子に贈る「願い」というよりは、地図に名前を書き込むような響きだった。
人として愛されることよりも、天としてすべてを俯瞰し、秩序を守り、李家という巨大なシステムを崩さぬよう、その背に街の重みを背負わせるという宣告。
承天にとって、息子は「自分を幸せにしてくれる存在」ではなく、「自分と同じく、逃げ場のない頂に立つべき器」であった。
青く澄んだ空は、
どれだけ見上げても手に入らない広さを持っている。
その名を、いま生まれたばかりの子に与えた。
龍騰がこの国で道を通し、
橋を架け、人を運び、
何十年も崩れない線を刻むためには——
空の名を持つ子が必要だった。
「……崩れるなよ」
誰にも聞こえないほどの呟き。
承天が視線を落とした先には、これから何十年、何百万人という重さを支え続けることになる、未完成の橋脚が立っていた。
真夏の光が、父の背中を、そしてまだ見ぬ息子の運命を、白く焼き付けていた。




