第3章番外 顔
(承前)
車が静かに走り出す。
アーロンは車窓を流れるシンガポールの夜景を眺めながら、 スマホを取り出した。
妻からのメッセージが一つ。 「今日は遅くなる?」
いつもと変わらない、短いやりとり。 車が信号で止まる。
(......あの顔)
昊天の私邸での食事会。
夫人を紹介され、「あの薔薇の」と言いかけたとき、あわてて遮った昊天の顔。
アーロンは何度も昊天と仕事をしてきた。
冷静で、合理的で、完璧な男。
でも、初めて見た。
家同士の結婚という入り口だったはずなのに、
いつの間にか、合理では説明できないものを手に入れた男の顔。
(......いい顔だ)
スマホの画面が暗くなる。
(俺も、妻を愛してる)
それは嘘じゃない。
学生時代から一緒で、 お互いを尊重して、 仕事も理解し合ってる。
完璧なパートナーだ。
でも。
(俺は、あんな顔をしたことがあるか)
信号が青に変わる。 車が動き出す。
アーロンは、もう一度スマホを見た。
「今から帰る」 短いメッセージを打つ。
妻も短く返してくる。 「わかった」
それで十分だ。 それでいい。
......はずなのに。
(男なんて、時々どうでもいい夢を見る)
自分で苦笑して、スマホをポケットにしまった。
窓の外には、高層ビルの明かりが、 どこまでも続いている。
学生時代から一緒で、 お互いを尊重して、 仕事も理解し合ってる、愛する妻。
十分幸せ。それなのに、「あんな顔」をするほど情熱をかきたてられたことはない―――。
アーロンのそんな、ちょっとした心の隙間。




