第3章番外 秘密の紅い花
(承前)
春節前、シンガポールでの最後の打ち合わせ。
アーロンは、いつも泰然自若としている昊天が、ここ数日やけに落ち着きがないことに気づいていた。
(……やたらスマホを気にしているな)
移動中、会議の合間、ひと息つくタイミング。
ちらりと画面を確認しては、すぐにポケットへ戻す。
気づかれないようにしているつもりなのだろうが、さすがに回数が多すぎた。
最初は、上海での業務が立て込んでいるのだと思った。
だが、緊急連絡に応じている様子もない。
好奇心で覗く趣味はない。
それでも、ファンドメンバーとの打ち合わせの休憩中、
窓際でコーヒーを飲む昊天の背後を通りかかったとき——
(……花?)
画面いっぱいに広がる、紅い色。
スクリーンを覆い尽くすほどの薔薇の花束。
その横で、少し困ったように、それでも抑えきれない嬉しさを浮かべて微笑む女性。
(——あ、これは本当に見てはいけないやつだ)
アーロンは足を止めず、何事もなかったようにその場を離れた。
(本土のバレンタインは花束の大きさが勝負だって聞くけどさ)
(……にしても、あれはでかすぎだろ)
そういえば、まだ新婚だったか。
それなら、まあ——こんなものなのかもしれない。
アーロンは、コーヒーをひと口飲みながら思った。
この男の「知らなかった顔」を、今、確かに見たのだと。
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菲菲は、総裁の動きを正確に把握している。
それは秘書としての職業習慣であり、
同時に——長く仕えてきた者だけが持つ、勘でもあるはずだった。
(……多い)
シンガポール出張、三日目。
会議の合間、移動の車内、控室。
総裁がスマートフォンに視線を落とす回数が、明らかに増えている。
しかも。
(通知ではない)
着信音も、振動もない。
ただ、ポケットから出し、画面を確認し、また戻す。
菲菲は、黙っていた。
だが、ひとつだけ、はっきり分かることがあった。
——今回は、自分に手配指示が来ていない。
花。
もし業務上の形式なら、必ず自分を通す。
だが、今回は違う。
(……総裁ご自身で、手配された)
それだけで、胸の奥に、わずかな棘が立つ。
業務ではない。
だからこそ、秘書の役割から外されている。
数回目の確認のあと、
菲菲はついに、低い声で告げた。
「上海で何かありましたか」
昊天の指が、ほんの一瞬だけ止まる。
「問題ない」
短い返答。
菲菲はそれ以上、踏み込まなかった。
踏み込めば、業務ではなくなる。
(……新婚、ですね)
そう思った瞬間、
なぜか少しだけ、面白くない。
総裁はまた、スマートフォンをポケットに戻す。
連絡はしない。
確認するだけ。
菲菲は視線を資料に戻しながら、内心でため息をついた。
(早く、上海にお戻りください)
——これ以上、業務効率が落ちる前に。
そして同時に、
ほんの少しだけ、こうも思ってしまう。
(……奥様、ずるいですね)
業務ではない感情を、
総裁から引き出してしまうのだから。
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2月12日。デスクワークをしていた劉のパソコンが新着メッセージを知らせる。
「14日に深紅の薔薇を届けてほしい。屋敷ではなく自宅だ」
春節前の百貨店は目が回るほど忙しい。
しかしこれは、万難を排してでも成功させなければいけない注文のようだ。
劉はくすくす笑いながら、デスクの上の受話器を取った。
「えー!バレンタインデーの注文なんてとっくに締め切ってますよ」
電話の向こうで花屋が困惑の声をあげる。
「しかも、この特大サイズなんて、これ通常はホテルのエントランス用ですよ。
自宅に搬入なんてむちゃでしょ。もう一度、お客様にサイズを確認したほうが……」
「李様のご自宅なんだから、そんな心配いらないわよ」
受話器の向こうの相手が押し黙る。
『2月14日』
『李様の自宅に配送』
『最高品質の深紅の薔薇の花束』
『特大サイズ』
さすが長年お抱え花屋として李家屋敷の生花を手掛けるだけあって、事の重大さを飲み込んだらしい。
「……とりあえず、問屋に掛け合ってみます。春節前だから、ふっかけられるかもしれませんよ」
「そんなみみっちいこと言わないで。李様からの早めのお年玉だと思って気張ってよ」
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ピンポーン!
「李総裁から奥方様へバレンタインの贈り物をお届けに上がりました!」
第1章の「バレンタインの贈り物」で登場したエピソードの裏側をお送りしました。のぞいてもからかわない、「あの薔薇の」で言いかけて止めるアーロンの男の友情、菲菲のプロフェッショナルぶり、劉さんの全力忖度&花屋さんの努力のおかげで、あのばかでかい薔薇の花束が上海で待つ妻のもとに届けられたんですね。昊天さんの溺愛ぶり――まわりはみんなもう気づいてますよね。本人だけはバレてないつもりみたいですけど。




