第3章(10)理解者の輪
ある夜、昊天の書斎で。
紅茶のカップを片付けようとして、デスクに無造作に置かれた雑誌に目がとまった。
「財経通訊」
そういえば、春に昊天と出かけた先で、話しかけてきた女性の記者がいた。
なにやら会社の事業についての取材申し込みだったようだが、
「そちらが、噂の奥様……」
「そういう呼び方はやめてもらえないか」
記者が横に立つ妻について口にしたとき。
昊天は吐き捨てるようにそう告げ、その場を後にしたのだった。
バスルームから、シャワーの音が響く。
ページをペラペラとめくると、ある囲み記事が目を引いた。
「龍騰智慧基盤(Smart Nexus) 次世代都市運用セミナー」
記事に添えられた写真は、壇上に立つアーロンと、客席の昊天。
胸の奥が温かく脱力した。
そういうことだったのか。
“誰と、どんな仕事をしているのか”
“それがどんな意味を持っているのか”
“夫がなにを見て、なにを考えているのか”
彼は、私には言わない。
説明しない。
それが昊天だ。
無理に聞こうとも思わない。
夫婦という形が安定してきた今、
焦って距離を詰める必要もない。
でも、
記事の中でアーロンが語っていた言葉。
「都市はデータではなく、人の非合理の集まりだ」
それは、
書斎で黙々と資料を読む昊天の横顔と
不思議なくらい重なって見えた。
(……あなた、
こういう人と一緒に働いているのね)
そして、
昊天がその場に座り、
誰より前で話を聞いていたこと。
それが妻には何より安心だった。
(私には話さなくても、
あなたを理解してくれる人がいる……)
アーロン。
昊明。
ネクサスの技術者たち。
龍騰の仲間たち。
そして、このレポートを書いた記者。
昊天が孤独に背負ってきた“何か”が、
今はもう、
彼一人のものではなくなった気がした。
静かに雑誌を閉じ、
そっとデスクに戻す。
(……よかった)
言葉にしない。
言葉にできない。
ただ、胸の奥でじんわりと広がる安堵。
そのとき、
後ろで気配がした。
「……どうした」
振り向くと、
濡れた髪を拭きながら、昊天が書斎に入ってくるところだった。
妻は柔らかく笑った。
「いえ。会社のセミナーの記事が載っていたので……」
昊天は目だけを少し動かし、
デスクの上の雑誌に視線を落とす。
「そうか」
短い返事。
だけどそれで十分だった。
妻は小さく頭を下げ、
カップを持って廊下へ戻る。
書斎の明かりがそっと閉ざされる。
けれどその扉の向こうで、
昊天の心がほんの僅か、
柔らかく揺れたことを——
妻は知らない。




