第3章(7)理想と現実
###知夏視点
会場は、思っていたよりも静かだった。
龍騰大厦の技術棟ホール。
——龍騰智慧基盤(Smart Nexus)
次世代都市運用セミナー。
(……ほんとに、一般参加でいいんだ)
名札を受け取りながら、知夏は少しだけ肩の力を抜いた。
正式な取材ではない。
封書を送ってくれた誰かの名前を探す必要もない。
会場内は、半分以上がスーツ姿だった。
金融機関、外資系ファンド、コンサル、行政関係者。
英語、中国語、日本語が低く交錯している。
知夏は、後方の端の席に座った。
ノートとペンだけを机に置く。
(私は、取材じゃない)
(今日は、聞きに来た)
壇上に、登壇者が並ぶ。
モデレーター。
技術責任者。
ネクサスに投資する外部ファンド。
そして——
(……いた)
李昊天。
客席の最前列。静かな顔で壇上を見つめている。
「本日は、“都市をどう夢見るか”ではなく、
“都市をどう止めずに運用するか”の話をします」
低く、淡々とした英語。
ネクサス事業に出資するシンガポール系ファンドの共同パートナー——アーロン・チャン。
(……この人)
派手さはない。
だが、言葉が一つひとつ現実に着地する。
スライドに映るのは、
港湾、交通、電力、保守。
どれも「地味」な図だ。
「スマートシティが失敗する理由は単純です。
人は合理的に動く、という幻想を置くからだ」
会場が、わずかにざわめいた。
「都市は、感情で詰まります。
渋滞、遅延、サボり、怒り。
だから我々が最初にやるのは、最適化ではない」
知夏は、ペンを止めた。
「——“切る”ことです」
スライドが切り替わる。
・完全自動化 → 切る
・全体最適 → 切る
・人を排除する設計 → 切る
「残すのは、
“今ある運用を、止めずに回す”ことだけ」
(……編集部で言われたことと、真逆だ)
市場は物語じゃ動かない。
生活はCFに分解してから。
でも、この人は——
生活を壊さないために、数字を使っている。
質疑応答の時間。
知夏は、手を挙げるつもりはなかった。
でも、気づいたら、手が上がっていた。
マイクが渡される。
「——理想論に見えるスマートシティを、
現実に落とすとき、
最初に切るべきものは何ですか?」
会場の視線が集まる。
若い女性。
一般参加者。
明らかに場違い。
でも、
技術者は目を瞬かせ、
行政職員は手元の資料をずらし、
投資家席の人々は、思わず顔を上げた。
アーロンが、少しだけ笑った。
「いい質問だ」
一拍。
「幻想だ。
人は合理的に動く、という前提」
会場が、完全に静まった。
「人は間違える。
サボる。
感情で動く。
だから、正解を押しつけない」
彼は、壇上から会場を見渡した。
「都市は“データの集合”ではない。
“人の癖・感覚・文化・摩擦”の集まりだ。
だから、スマートシティ構想で最初に捨てるべきは、
“人間は最適化された通りに動く”という幻想なんだ。」
知夏の胸の奥で、何かがカチリと音を立てた。
(……これだ)
夢じゃない。
未来でもない。
今の街を、少しだけマシにする設計。
拍手が起きる。
だが、知夏はそれに混ざれなかった。
会場で、微動だにしない男がいた。
李昊天。
彼は、アーロンの言葉を否定しない。
補足もしない。
ただ、黙って受け止めている。
(この人は……)
自分で語るために立っていない。
語らせるために、そこにいる。
セミナーが終わる。
人が立ち上がり、名刺が飛び交う。
知夏は席を立たず、ノートを閉じた。
出口に向かう途中。
人混みの向こうで、一瞬だけ——
昊天と、視線が重なった。
……気がした。
でも、彼は何も言わない。
近づいてもこない。
(覚えてない、よね)
知夏は、少しだけ笑って、会場を後にした。
それでいい。
今日は、来てよかった。
彼女はそう思いながら、
名札を外し、バッグにしまった。
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###アーロン視点
上海入りは午前の便だった。
空港を出て、迎えの黒い車に乗る。
助手席ではスタッフが資料を確認している。
龍騰智慧基盤(Smart Nexus)
次世代都市運用セミナー
会場:龍騰大厦 技術棟ホール
アーロンは、
案内状の端を指で軽く弾いた。
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「きみが、こういう“公開の場”をやるのは珍しいね」
セミナー後、アーロンと昊天はともに会場を出た。
「そろそろ、本格的に外部の参入可能性を探りたい」
ロビーにはさまざまな立場の人間が入り混じっていた。
技術者のリュック、
投資家の革靴、学生のスニーカー。
その雑多な流れの中で——
昊天は一瞬だけ、
ひとつの背中を視界に入れた。
陳 知夏。
肩にかけた布バッグ。
歩みが少しだけ遅い。
けれど、迷ってはいない。
声は、かけない。
名乗りもしない。
ただ、“視界に入れた”。
それだけで充分だったし、
それ以上は許されない。
横にいたアーロンが静かに言う。
「あの女の子、さっきの質問、よかったな」
昊天は淡々と答える。
「そうか。」
「君が呼んだんじゃないのか?」
「偶然だろう。上海は、人が多い」




