第3章(5)失敗
陳知夏は、会見動画を三回止めた。
一回目は、
「龍騰の基幹技術資産は、 本社ではなく、別法人に帰属しています」
その一言で。
二回目は、
質問が荒れているのに、
総裁の声のトーンが最後まで変わらなかったところ。
三回目は、
「——法は、姓を見ません」
(……なんで、こんな言い方ができるんだろう)
彼は逃げていない。
でも、正面からロジックでたたき伏せるようでもない。
「殻上場?」
「RPT?」
「敵対的買収?」
そういう単語が、SNSで金融クラスタの間を飛び交っている。
けれど、彼の言葉の本質はそこにはないように思えた。
もっと先。
街そのものを、どう動かすか。
龍騰グループといえば、建設、不動産、港湾物流、エネルギーなどの分野で、
政府との結びつきを深めて事業を拡大してきた。
その会社の、基幹技術資産?
知夏はノートを開く。
大学時代に叩き込まれた経済モデルでも、
株価の話でもない。
27歳の彼女にはわかる。
これは「企業価値」の説明じゃない。
時代の設計図だ。
——未来のインフラは、
——人の生活は、
——都市は、誰のものになるのか。
スマホに、故郷の母からのメッセージが溜まっている。
「彼氏とはどうなった?」
「いつ結婚するの?」
知夏は母の問いに既読をつけ、適当なスタンプを送る。
そして、もう一度動画を再生した。
いまは恋人の話をしている場合じゃない。
この人が見ている“次の時代”に、
少しだけ、触れてみたい。
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街を歩くのは好きだ。特に、柔らかな緑が芽吹く春は。
お気に入りの曲をイヤホンで聴きながら、フランス租界・武康路を歩く。
プラタナスの並木道は、上海で一番のお気に入り。
地方育ちの自分が、一気に都会っ子になったような気分になる。
歩道の向こうから、男女連れが歩いてくるのが見えた。
どちらもすらりとしていて、いかにも上海の若手富裕層という感じ。
男性のほうがポケットからキーを取りだし、
近くに停めてあったポルシェ・カイエンを解錠する。
すれ違おうとした瞬間、目を疑った。
(まさか、李総裁……?)
昨年、李総裁夫妻を遠目から見かけたことがあった。
先輩の代わりに取材した、龍騰グループのチャリティーガラ。
まぶしいフラッシュの中、総裁は妻をエスコートし、
周囲と笑いさざめく。
映画のように完璧なカップルに見えた。
「龍騰の、李総裁……?」
声に出した瞬間、少し後悔した。
半歩後ろにいた総裁夫人が、わずかに困惑した表情で夫をちらりと見上げる。
「何か?」
冷たい声。
知夏はあわててカバンをかき回し、カードケースを取り出す。
「わ、私、財経通訊記者の陳 知夏と申します!御社のSmart Nexus事業について伺いたくて……」
「取材なら、広報を通してほしい」
「ええ、何度か取材依頼をお送りしました。でも、お返事をいっこうにいただけなくて……」
「では、お話できるようなことは何もないということだ」
にべもない。
総裁は夫人の肩に軽く触れ、車内に促す。
きれいな人。白いワンピースにうすピンクのストールをまとい、
上海に春を呼び込むハクモクレンのようだ。
こういう女性が、覇道の男を射止めるのか……。
「そちらが、噂の奥様……」
「そういう呼び方はやめてもらえないか」
一段と冷たさを増した声。
「私生活を、切り売りするような商売はしていない」
総裁は吐き捨てるように告げ、そのまま車に乗り込み走り去った。
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(うわ、絶対に失敗した……)
車が走り去ったあと、
私はしばらく歩道に立ち尽くしていた。
悪い意味なんて、欠片もなかった。
むしろ逆だった。
きれいな人だと思っていた。
あんなふうに凛としていて、
覇道の男の隣に立てる、大人の女性。
(どうしてあんな顔……)
怒鳴ったわけじゃない。
暴力的でもない。
ただ、明確に拒絶された。
私は記者として未熟だ。
でも、相手の嫌悪くらいは分かる。
さっきのは、絶対に“やってはいけないこと”をした反応だった。
週末に声をかけたから?
奥様って呼び方が失礼だった?
(違う。
もっと……核心に触れた感じだった)
胸の奥がひりひりする。
プラタナスの影が揺れている。
私は、ただ知りたかっただけなのに。
龍騰の未来が、
あの人が考える都市の次の形が、
どうしても気になってしまっただけ。
(取材どうしよう……絶対また先輩に馬鹿にされる)
風が吹き、
プラタナスの葉がぱら、と落ちた。




