第3章(2)あるじの城
###菲菲視点
最近、総裁は帰宅が早くなった。
「この後の連絡は、緊急の用件だけにしろ」
そう告げて、一段落つけば自宅に戻る。
その日に片付けなければいけない案件があれば、自宅で対応しているようだ。
海外出張などで戻れない日は合間を見て電話をかけている。
守るものが、増えたのだ。
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「こちら、懇意の経済記者にネクサスについてまとめさせたものです。
……公開情報ベースですが、現時点では十分かと」
総裁の自宅。上海の夜景を見下ろすペントハウスの来客用リビングで、菲菲は数枚の原稿を昊天に差し出す。
先日の記者会見で、昊天が「基幹技術は別法人」と述べたことで、
アジア圏の金融クラスタたちは、さまざまな観測を飛ばし合っていた。
「喂、総裁これ言ったのかよ。核心技術は別会社にあるって?」
「殻上場か?あの典型的なやつか!」
「子会社に核心技術があるからといって、必ずしも“殻上場”というわけではない。
RPT(関連当事者取引)の条件次第だ」
「子会社がIP(知的財産)を持つのは、アジアのインフラ・テックでは普通のこと。
問題はRPTによる利益配分だけ」
龍騰智慧基盤有限公司(Longteng Smart Nexus)――通称、ネクサス。
昊天が推し進めるスマートシティー事業の“本丸”だ。
龍騰グループの未来は、ネクサスの中にある。
まずIR主導で独立取締役にネクサス設立の経緯を説明させ、併せてなじみの記者に解説記事を書かせる。
昊天は、矢面には立たない。
「申し訳ありません。どうしても今日中に確認してほしいとのことで」
昊天はうなずき、静かに紙面に目を落とす。
菲菲はめったに、ペントハウスには立ち入らない。
訪れたとしても、一階のみ。
ここはあるじが築いた城。
それは、暗黙のルールだった。
小猫が紅茶の入ったカップをテーブルに置き、滑るように退出する。
まるで、猫のようだ。
「問題ない」
昊天から戻された紙面を、封筒に入れて立ち上がろうとしたとき。
「遅くまでお疲れさまです」
二階へと続く階段から、妻がゆっくり下りてきた。
けして越えてはならない境界の内側から、誰かが出てくるとき。
――胸の奥に残っていた熱は、
理由もなく、すっと冷える。
昊天はちらりと妻を見て、何事もないようにスマホのメッセージを確認している。
妻は、菲菲を玄関まで見送った。
「いつも、ありがとうございます」
妻は、静かに声をかけた。
菲菲は目礼し、扉を開けて外に出る。
4月だが、夜はまだ少し冷える。
(私は、あるじの城を、守ろう)
高層マンションのエレベーターは音もなく、下界に向かって滑り下りていった。




