第97話「ただいま、俺の現場へ」
「おかえりなさい、神原さん」
現実世界に戻ったその瞬間、耳に飛び込んできたのは、小田切ひかりの明るい声だった。
朝の柔らかな光が、事務所のガラス窓を通して差し込んでいる。
あの壮大な城を築いた異世界の記憶が、まるで夢だったかのように遠く感じた。
「……あぁ。ただいま」
神原匠は、ごく自然な声でそう返していた。
「神原、戻ってきたか」
がっしりとした体格、声も笑い声も大きい、所長・武藤鉄斎が姿を見せる。
部下の帰還に特別な表情は見せないが、その肩を叩く手にすべてが込められていた。
「任せてた現場は、ひとまず順調だ。だが……やっぱりお前がいないと、締まらんわ」
「恐縮です」
「で? どこに行ってたか、話せるんか?」
「……まぁ、そのうち。いろいろ考える時間があったんですよ」
武藤はそれ以上詮索しなかった。ただ、うなずいて、こう言った。
「現場ってのはな、誰かが仕切らないと、ただの寄せ集めでしかねぇんだ」
その言葉は、まさに異世界で感じたことそのものだった。
その日の現場は、杭頭補強筋の調整作業と、基礎配筋のチェック。
特別な事件もなければ、ファンタジーじみた展開もない、ただの“日常”だ。
だが、匠の中で何かが変わっていた。
段取り、声かけ、確認──
それぞれの作業に対して、彼の指示が一層冴えていることに、職人たちは気づき始めていた。
「神原さん、今日、やたらキレてますね」
高槻が現場でぼそっと呟いた。
「ん? そうか?」
「いや、なんというか……“芯”が通ってるっていうか。指示が全部、意味ある感じです」
匠は思わず笑った。
「異世界でな、もっと段取りの悪い現場を見たんだ。おかげで俺も、何を大事にすべきかがわかった」
「異世界って……」
「気にすんな」
昼休み。匠は足場の最上段に登って、遠くの空を見ていた。
あの世界にはもう戻れないかもしれない。でも、あそこで築いた想いは確かに生きている。
「俺の現場は、ここにある。だけど──」
ポケットのスマホが、小さく振動する。
誰もいない場所で、画面にふわりとエルが姿を現した。
《ご無事で何よりです。匠様。お帰りなさい》
「ただいま、エル。……でも、なんか、また騒がしくなりそうな予感がするんだよな」
《実は──気になる“反応”が、こちらの世界に近づいています》
「おいおい……せっかく日常に戻ったってのに」
《日常とは、決して静かなものではありません。むしろ、動き続ける日々の中にこそ、あなたの力が必要なのです》
匠は小さくうなずいた。
そう。現場という戦場に、休息の時などない。
彼は再び、地に足をつけて歩き出す。
次なる“建設”の物語が、もうそこに待っている。




