第96話「この世界に、“現場”があってよかった」
連休明けの月曜日。
現場の喧騒が戻ってきた。
新しいプロジェクトの準備が進む中、神原匠は久々に事務所のホワイトボードの前に立っていた。工程表、業者一覧、材料の搬入予定、仮設計画——すべてがまだ“これから”だ。
「ふう……やっぱ、現場だな」
そうつぶやき、匠はペンを走らせる。
整然と並ぶ項目とスケジュール。それを見ただけで、胸が高鳴る。
「おはようございます! 新現場の配置図、こっちに置きましたー」
事務所に入ってきたのは、事務員のひかり。手にしていた紙束をテーブルに置く。
「ありがとう。さっそく段取り、詰めていくか」
「さすがですね、神原さん。キャンプでも一人だけ“現場監督”してましたけど」
「……やめろ、それはもう忘れろ」
笑いながら、ひかりは温かいお茶を渡してくれた。
ほんの少し、こういう朝がありがたい。
■
午前10時。協力会社との工程調整会議。
設備、電気、鉄筋、型枠、土工、仮設。各業者の担当が顔をそろえた。
「今現場はまだ更地だけど、週末には敷き鉄板敷いて重機搬入します。初日は仮囲い、仮設電気と水の引き込みから始めます」
匠はホワイトボードを指しながら説明する。
「杭芯はこの週末に測量して、来週中盤から山留工事。最終的に基礎は3週間以内に鉄筋→型枠→打設まで完了予定。鉄骨建て方の準備も、その頃から始めます」
高槻が横から補足を入れる。
「なお、職人さんの導線確保とストックヤードの設置位置は、こちらで案を出して調整中です」
職人たちが一様にうなずく。
「……わかりました。じゃあ各社、それぞれ工程を持ち帰って詰めておきます」
会議が終わり、資料を片付けていた市川がつぶやいた。
「神原さん、やっぱスゲーっす。全部、頭ん中に入ってるんすね」
「違う違う、段取りってのは“調整しながら決めるもん”だ。完璧な計画なんて存在しねぇ」
「でも、神原さんが言うと納得しちゃうっすね」
「……だろ?」
ちょっとだけ得意げに、匠はホワイトボードに最後の一言を書き込んだ。
『現場は段取りで回る。人の想いが形になる場所。』
■
昼休み。人気のない現場の隅で、匠はスマホを取り出した。
「エル。お前がいなくなっても、俺はやっぱり“現場”が好きだわ」
《……そうですね。建設現場というのは、“混沌の中に秩序をつくる場所”です》
「そう。それが快感なんだよ。ぐちゃぐちゃな場所に、ルールと順番を持ち込んで、人が動いて、建物ができる。最高じゃんか」
《魔法ではなく、知識と経験と段取りの力。それが、あなたたち現場監督の“魔法”です》
匠は少しだけ目を閉じた。
異世界での日々。エルと旅をした時間。
建築の本質は、どの世界でも変わらなかった。
「俺、やっぱこれが天職なんだろうな。現場監督」
《きっとそうですね。あなたが現場にいると、なぜか皆が前を向く》
「俺がやってるのは段取りと安全管理と説教だけだぞ?」
《それがすでに“魔法”です》
匠は、笑った。
■
その日の夕方。
仮囲いの資材が搬入され、杭打ちの機械が敷地の奥に並び始めた。
あの何もなかった更地が、数ヶ月後には人が暮らす場所になる。
図面だけだった建物が、地面から生まれてくる。
その一歩目に、匠はいつも立ち会っている。
そしてまた、段取りは始まる。
現場監督という魔法使いとして。




