第86話「異世界に、“安全”という魔法を」
朝の現場。
異世界の石職人たちは、今日も裸足に近い足元で高所の作業に取りかかっていた。ヘルメットはなく、手すりもあってないようなもの。
匠は思わず目を覆った。
(これは……ヒヤリハットじゃすまないぞ)
「おい、そこ! 高所作業してるなら落下防止措置ぐらいは取れ!」
「だいじょぶだいじょぶ、落ちたことなんて一度もねぇよ!」
その言葉に、現場の職人たちはどっと笑う。まるで“危ないこと”が、現場の勲章であるかのように。
匠はぐっと拳を握った。
事務所――というには簡素すぎる石の小屋。
その中で、匠は大きな紙にマジックで何かを描き始めた。
「この現場で、事故が起きたらどうなるか。わかりやすく見せるしかねぇな……」
《もしよろしければ、光属性の“視覚強調”魔法を組み合わせてみては?》
エルが耳元で提案する。
《文字や図を“意識に染み込むように”見せる魔法です。読み手の理解力を一時的に高めます》
「そんな都合のいい魔法が……」
匠は苦笑しながらも、書いた図解に魔力を込めていった。
翌朝。
現場の広場に、1枚の掲示板が設置された。
そこには、“墜落事故”“崩落”“火災”など、現実的すぎる事故のイラストが描かれ、それを見た者が一瞬、ハッと息を呑むような光の魔力が宿っていた。
「……なんだこれ……」
「俺、昔ほんとにこんな目に遭ったことあるぞ……」
「なんで絵を見ただけで、心臓がバクバクすんだ?」
匠は静かに言った。
「これが、“安全意識”ってやつだ。日本では毎朝、作業前に“安全唱和”ってのをやる。自分と仲間を守るために、全員で声に出して唱えるんだ」
ひとりの若い職人が、小さくつぶやいた。
「自分を守る……」
「仲間も……」
その日の午後、現場では奇妙な変化が起きた。
手すりが整えられ、資材は整理され、声かけが飛び交いはじめた。
「おーい! そこ上がるぞ! 気をつけろよ!」
匠は小さく頷き、エルに話しかけた。
「“安全”ってのは、魔法以上の魔法かもな。自分を守れて、みんなも助けられる」
《あなたの“魔法”は、言葉と図面と、そして意志ですね》
「……ああ。今日も、いい現場にしてくるよ」




