第71話「止まるな、“基準階”のその先へ」
「神原、今週で9階まで躯体終わらせとけよ。基準階に入って気が抜けてる職人もいるから、しっかり引き締めとけ」
朝、事務所で丸山課長が口を開く。
「了解です。最近ちょっと、現場の動きが緩んでる気がしてました」
※“基準階”とは、集合住宅やビル建設において、2階以上で繰り返される同じ構造の階を指す。
初期階(1〜2階)では間取りや設備が複雑なことが多いが、基準階に入ると“ルーティン”化され、現場の作業が一定のパターンに落ち着いてくる。
一方で、“慣れ”からくる油断や見落としが事故や品質トラブルの原因になることもある。
その日も現場は順調に進んでいる……ように見えた。
「神原さん、鉄筋配置、10ミリずれてました」
「墨、引き直したほうがいいかもしれません」
後輩の高槻が指摘した。
「10ミリ……っつっても、耐力壁の芯だから、構造的に影響出るな」
現場ではよくある“たった数ミリ”のズレだが、それが後々、型枠やコンクリートの精度、ひいては建物の強度にも関わる。
匠は職人たちを集め、修正を指示した。
「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
「毎回同じ作業で、手が勝手に動いてて……」
「……気持ちはわかる。でもその“ちょっと”が事故につながる」
そのとき、現場に大きな声が響いた。
「オイ、何やってんだお前らァ!!!」
所長・武藤の怒声が場内に響き渡る。
ガタイのいい体に、いつものあごひげを揺らしながら現れた。
「基準階だと? ルーチンだと? そんな気の抜けた現場で、建物が立つか!!」
空気が凍った。
「神原、おまえもだ。気を抜いてんのはてめぇ自身じゃねぇのか?」
「……はい」
匠は、静かに頭を下げた。
昼休み。
事務所でひと息つきながら、匠はスマホに語りかけた。
「エル。頼む。現場の空気、引き締めてやりたいんだ」
《集中強化魔法、“思考加速”を小範囲展開します。
効果範囲は約10メートル。対象の思考と認知の明瞭性を一時的に高めます》
「頼んだ」
午後の現場。
匠は何気なく型枠の近くに立ち、心の中で唱えた。
「この工程に、一分の狂いも出ないように。……集中を」
ふわりと、魔法が拡がる。
すると、いつものように雑談していた職人たちが、ふと静かになり、黙々と図面と現場を見比べ始めた。
「……このアンカー、こっちの方がよくねぇか?」
「やべ、鉄筋のかぶり少ねぇ。修正しよう」
何も指示していないのに、現場が“現場らしい”空気に戻っていった。
作業終了後。
所長の武藤がぼそっと呟いた。
「ふん……やればできんじゃねぇか。おまえらの底力ってやつ、少しは見せろよな」
「はい……ありがとうございます」
匠は深く頭を下げた。
その夜。
事務所の端で、匠はエルにそっと話しかけた。
「魔法で流れを変えられる。でも最後に現場を支えるのは、人の気持ちだな」
《そうですね。神原様が“気づいた”ことが、魔法よりずっと強い力です》
「所長には……魔法なしでも敵わねぇな」
ふたりは静かに笑い合った。




