第72話「安全パトロールは突然に」
「神原、午後イチで本社の安全部長が来るってよ。安全パト。抜き打ちだ」
朝の事務所で、丸山課長が真顔で言った。
珍しく声に張りがなく、書類を持つ手もやや震えている。
「……マジすか。あの“地獄の安全パト”って呼ばれてる……?」
「そう。藤守部長。現場20年・本社15年の生きた伝説だ」
※安全パトロールとは、本社や元請が現場の安全管理体制を抜き打ちでチェックすること。
点検対象は多岐に渡り、服装・工具・掲示物・養生・仮設通路・職人の態度まで細かく見られる。
現場監督にとっては、“普段の現場の姿勢”が試される緊張の時間だ。
正午を過ぎた頃、事務所の外に黒塗りの社用車が停まる。
ドアから現れたのは、がっちりとした体格にスーツ姿、無言で書類ケースを持った初老の男性。
それが安全部長・藤守だった。
「……では、始めましょうか」
低い声が現場に響く。
「掲示板の週予定表、日付が昨日のままです」
「仮設階段、端部の養生テープが剥がれています」
「あそこ、職人のヘルメット、アゴ紐つけてませんね」
容赦ない指摘が飛ぶ。
一緒に回る匠の心臓も、バクバクと鳴っていた。
(ヤバい。完璧に見抜いてくる)
一方で、鉄筋加工ヤードでは突風で書類が散乱。
掲示板から点検チェックリストが飛ばされてしまう。
(やば……!)
匠は周囲に気づかれないよう、心の中で唱えた。
「風よ、今だけ俺の味方になれ。“集風”」
小さな風の渦が生まれ、紙はぴたりと匠の手に戻ってくる。
高槻がチラリと見たが、何も言わなかった。
午後、建物内の巡視では、階段の縁に置かれた未使用資材が目に入る。
「こういう一時置き、事故のもとです」
藤守の目は鋭い。
(くっ……見逃してくれないか……)
匠は、事前に仕込んでいた“視認強化バフ”が効いていたことを思い出す。
朝、念のために「注意すべき箇所」が自然と目につくよう、軽く全体にバフをかけていたのだ。
そのため、巡視の途中で事前に問題箇所が職人に見つかり、ギリギリで撤去された部分も多かった。
(これがなかったら、もっと指摘されてたな……)
パトロール終了後、藤守部長は事務所で報告書を書きながら、一言だけ漏らした。
「――君の現場、よく見ている。細かい部分はあるが、悪くはない。……あまり“運”には頼らないことだ」
匠は思わず、冷や汗をかいた。
「……は、はい」
(バレてないよな……?)
その夜。
スマホの中のエルが静かに言った。
《安全は、守るべき“ルール”であり、誰かの“命”を守る盾でもあります。
魔法で補えても、根っこは変わりません》
「わかってる。今日は本当に……反省する回だったよ」
匠は深く椅子にもたれかかった。




