第69話「鉄板の下のささやかな魔法」
「神原、今日は現場ちょっと余裕あるだろ。安全週間の前だし、一旦手入れと休憩入れとけ」
朝、課長・丸山が缶コーヒー片手にゆるく言う。
「はい、仰る通りで。今日は材料搬入もなく、作業は軽めです」
「現場内がだいぶ泥で汚れてんな。鉄板も泥で滑るし、洗っとけよ?」
「……了解しました」
※敷き鉄板とは、現場内に重機や資材の通行用として敷く鋼製の厚板。
ぬかるみや凹凸から車両を守り、安定した通路を確保する役目を持つ。
ただし雨が続くと泥が溜まり、滑りやすくなる。定期的な清掃が安全上重要だ。
午前中は職人たちも余裕があり、場内の軽作業や片付けが中心。
高槻は写真整理、小田切は書類整理。市川は水たまりの排水作業をしていた。
「神原さん! 鉄板の泥、ホースの水圧じゃ全然取れないっす!」
「というか、これ絶対、昨日のトラックが跳ね上げた泥っすよ!」
「だろうな。降雨後の路盤がやわいまま走らせると、こうなる。……よし、やるか」
匠はふっとスマホを取り出し、小声で呟く。
「水属性。広範囲洗浄――軽圧送で。泥だけ流して、土は動かさないように」
《了解。“洗浄流”発動。表層汚れを優しく剥離します》
シャアァァァ――
目に見えぬ透明の膜が鉄板を包み、水が走るように泥だけを押し流していく。
スコップで削っても取れなかった粘着した泥が、あっという間に流されていく。
「うお、なんすかこれ!?」
市川が駆け寄ってくる。
「ちょうど地下の排水が効いてるみたいで、鉄板の傾斜を使えば奥まで流れてくれるな」
「え? 水の流れ、誘導してるんすか?」
「……たまたまだろ」
「またそれっすか」
匠は笑いながら、現場の隅に置いたバケツに魔法水を再利用し、資材の泥も落としていく。
職人たちはその様子を見ながら、特に不思議にも思わず、
「神原の現場、やたら綺麗に保たれてるよな」
「やっぱ小まめな清掃っすかね」
と納得した顔をしていた。
昼休憩。
事務所で弁当を広げながら、匠はポツリと呟いた。
「泥だらけの現場も、ひと手間で見違える。……それって、現場だけじゃない気がするんだよな」
《整える、という行為は、建築の根本です。基礎も、構造も、人間関係も》
「エル、おまえ、最近ちょっと詩的すぎねぇか?」
《影響されたのは、神原様のほうかと》
ふたりのやり取りに、近くで書類を整理していた小田切がくすりと笑った。
午後。
敷き鉄板は新品のように輝き、現場の空気もなぜか少しだけ軽くなっていた。
“ほんの少し、現場の魔法”――
それは目立たなくても、誰かの安全を守っていた。




