第68話「組み上がる、空中の足元」
「神原、明日から足場組むからな。南面から先行で立てて、来週の外装に間に合わせろよ」
朝の事務所。課長・丸山のひと言で今日も一日が始まる。
「了解です。搬入は8時、職長会には昨日共有済みです」
「安全管理、気ぃ引き締めとけよ。高所作業は事故が起きると取り返しがつかんからな」
※足場組立とは、建設現場で高所作業を行うための仮設構造物をつくる作業。
パイプや鋼製部材を接続して立体的に組み上げていく。
作業員の命を支える“空中の足元”であり、確実な固定と足元の安定性、安全帯使用などが絶対条件だ。
現場ではすでに、足場資材が山のように積み上がっていた。
「よーし! まず支柱からだ! 水平と垂直はレーザーでチェック! 斜材を固定してぐらつき防止!」
辰巳親方の声が飛ぶ。鋼管がひとつ、またひとつと組み上がっていく。
その下で、若手の市川がやや緊張気味にパイプを担いでいた。
「神原さん……正直、ちょっと足場作業、ビビってます」
「まあ当然だな。最初は誰でも怖いよ。俺も最初、腰抜かしそうになった」
匠は笑ったが、その視線は真剣だった。
上階ではすでに3段目の布板(歩くための板)まで立ち上がっていた。
市川が躊躇しながら昇ろうとしたそのとき――
カタンッ。
何かに躓きそうになり、バランスを崩しかける。
「うわっ……!」
すかさず、手を伸ばしたのは匠だった。
「市川、深呼吸しろ。目を閉じろ。で、ここに立ってるイメージだけ作ってみろ」
「イメージ……ですか?」
「そうだ。立つんじゃなくて、“立ててる自分”を頭に描く」
そう言って、匠はそっと呟いた。
「この現場が、ひとりひとりの重心に気づき、バランスを取り戻せますように。ご安全に――」
《“平衡感覚強化”、発動しました》
ほんのわずかに、市川の重心が整い、足元が安定する。
「……あれ? なんか、怖くないです。体が動きやすい……」
「その調子。焦らず、でも臆するな」
作業は順調に進んだ。
風は穏やか。太陽は程よく照っていた。
しかし午後2時ごろ、南面の7段目を組み上げている最中に、にわかに風が強まる。
「おい、上、支柱が揺れてるぞ!」
「斜材締め増し! 養生押さえろ!」
緊張が走る現場。
匠はスマホを手に取り、小さく呟いた。
「エル、“風圧分散”。いけるか?」
《可能です。指定範囲に吹く風の力を拡散し、揺れを軽減します》
「……南面の足場全体に頼む」
その瞬間、吹きつけていた突風がふわっと和らぎ、足場の揺れがピタリと止まった。
「なんだ、風、おさまったぞ」
「タイミングよすぎじゃないっすか? さっきまで煽られてたのに」
「ほら、現場の神様が見てくれてんだろ」
匠はいつも通りの“知らんぷり”を決め込んだ。
作業終了後。
市川は道具を片付けながらポツリと呟いた。
「今日、なんか不思議でした。あの時、落ちる気が全然しなかったんですよ」
「それが、“現場の空気”ってやつだ。慣れたやつが作る空気ってのは、若手にも伝わるんだよ」
「……そういうもんすかね?」
匠は少しだけ笑って、空を見上げた。
“そういうもん”じゃない。
でも、“そういうふうに見せたい”。
魔法の存在なんてなくても、現場はひとりひとりの気遣いで支えられている。
その原則だけは、匠の中でも変わらなかった。
エルが小さく囁いた。
《本当は、魔法を使わずに済む現場が一番素敵ですね》
「まったくだ。でもな、まだその域には達してないのよ。だから、今日も頼むぜ、相棒」
《ふふっ……了解です、神原様》




