第34話「静かな現場に、最初の“ヒビ”」
朝。
曇り空の下で朝礼が進み、今日も淡々と現場が始まった。
神原匠は足場チェックを終え、エレベーターの手すりを確認しながら、心のどこかに違和感を覚えていた。
「……妙に静かだな」
作業は進んでいる。工程も遅れていない。
しかし、現場の“空気”が、どこかピリついている。
「エル。これって、魔力の影響か?」
《いえ、魔力干渉はありません。ただ……“精神的な揺らぎ”が局所的に観測されています》
「精神的な……?」
昼休み。事務所。
市川漣が、コーヒーを手にぼそっとつぶやいた。
「……神原さん、最近、見てます? 朝倉さんの様子」
「朝倉?」
「塗装屋の兄ちゃんっす。最近、やたら無口になってて」
「……確かに、前はもっとよくしゃべってたな」
「今日なんか、昼も一人で足場の端にいましたよ。雨止んでも、ずっと空見てて」
高槻も気になったのか、手帳を閉じて顔を上げた。
「たしか朝倉さん、数年前に現場で事故にあったって言ってました。…ちょうど、今日みたいな曇りの日に」
匠の背筋に、すっと冷たいものが走った。
(“過去の記憶”……それが、揺れてる?)
午後、塗装作業中に事件が起きた。
「うわっ、朝倉さん!?」
足場の3段目で、朝倉がバランスを崩し、そのまましゃがみこんだ。
すぐに駆け寄った職人たちが支える。
「すまん……急に、足が震えて……」
「救急車呼びますか!?」
匠は素早く状況を見て、首を横に振った。
「違う。怪我じゃねぇ。これは――」
匠はそっとスマホをポケットに押し当てた。
「エル、回復魔法は……いや、違う。“癒やし”だ」
《了解。微弱の光魔法、“安心の光”を。精神の緊張を一時的に解きます》
風のような光が、ゆるやかに足場を包む。
誰にも気づかれないほど小さな魔法。
だが、その光を浴びた朝倉の肩が、ふっと力を抜いた。
「……ああ、すまん。なんか、急に落ち着いた」
「無理すんな。今日は、早上がりでいいから」
匠は笑ってそう言った。
ただ、その背中を見ていた高槻の目は――少し鋭かった。
その日の終業後。
高槻は神原に言った。
「……いまの、ですよね」
「え?」
「朝倉さん。あの光、見えました。…いや、“感じた”って方が正しいかもしれない」
匠はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「人の心って、厄介だな。
壊れても見えないし、治っても誰にも分かんねぇ」
「でも……助けられたじゃないですか。今日の朝倉さん」
「……ああ」




