過去世の天良
末那の父、阿頼耶の計らいにより、婚約までこぎつけた天良と末那だったが、彼らは、未だに唇を重ねる事さえしていなかった。それは、能力者である末那への畏敬の念が、天良の煩悩を抑えていたのかも知れない。
婚約から数日経ったある日、天良は自分の過去世のことを訊くために、日神家を訪れていた。本題に入る前に、天良は阿頼耶から言われていた事に触れた。
「末那……、お父さんから提案された、僕の仕事と住まいの件なんだけど、君はどう思う?」
名前を呼び捨ててくれていいと言われていた天良が、照れくさそうに言った。
「勿論私は賛成よ。貴方さえ良ければ、秘書として傍にいて欲しいし、この家にも住んで欲しい。でも、これは貴方のことだから、貴方の判断に任せるわ」
末那が望んでいるならと、天良の気持ちは傾きかけたが、肝心の仕事の話は何も聞かされていなかった。
「それで、警察庁の話はどうなっているのかな?」
「今は、こちらの返事を待ってもらっている状態だから、引き受ければすぐにも話は進むはずよ。貴方の意見を聞いた上でと思っていたの」
「僕にどこまで出来るか分からないけど、君の秘書として頑張ってみようと思う。話を前に進めてくれないか」
「分かったわ。今日の内にも警察庁に返事をしておくわね。住まいの方は、少し改装するから暫く待ってほしいの」
「お世話になるばかりで、申し訳ない」
頭をペコリと下げる天良に、笑みを返した末那は、お茶を一口飲んだ。
「では、あなたの過去世について話します。良いですか?」
天良が緊張の面持ちで頷くと、末那は彼の目をまっすぐ見つめて話し出した。
「前にも言ったけど、私は幼い頃から、自分によく似た人の夢をよく見ていたの。それが、ある時、過去世の自分だと分かった時は、流石に驚いたわ。彼女は、日神子という平安時代の呪術師で、未来を予見する能力を持ち、民衆を導いていた。
そして、日神子と同じ時代に生まれ、彼女を支えたのが、夫である藤原天良です。
民衆の側に立つ日神子は、それを良く思わぬ輩に、何度も命を狙われていた。そんな彼女を、生涯支え抜いた藤原天良こそが、天良さん、貴方なんです」
末那の感情の高まりが、声の響きに現れる。
「読みこそ違え、名前まで同じだったんだね。藤原天良は、何か能力を持っていたのかな?」
「彼は武人でした。誰よりも強かった。人並み外れた力は、鬼神とまで言われたことがあったわ」
「鬼神か……」
「愛する妻を何としても守りたいという凄まじい気迫が、そのような力を生み出したのだと思うわ。だから、私の鬼眼のように、あなたにも鬼神の力が本来備わっているはずなの」
「今の僕にも、その鬼神の力を引き出すことが出来るんだろうか」
「できる筈よ。あなたは、私と共に生まれる度にその力を発揮していたから」
「じゃあ、その力を発揮するには、どうすれば良いんだい」
天良が真剣な目で、末那に顔を近づけた。今の天良には、彼女を護るための力が欲しくて仕方がなかったのだ。
「貴方が鬼神の力を得るためには、まず、自分の過去世の姿を思い出さなくてはいけないわ――このことは、後日改めて説明するけど――その上で、自身の精神の限界を超えるきっかけが必要なの。私もある事ががきっかけで、鬼眼を開くことが出来るようになったから」
「後日か……、早く聞きたいけど、何か訳があるんだね。今日は、僕に潜在的な力がある事が分かっただけでも、大きな収穫だ。ありがとう」
「どう致しまして、あと一つ、過去世で私の敵対者だった月神子という能力者がいたんだけど。恐らく、彼女もこの世界のどこかに生まれているはずなの。必ず私達の前に現れると思うから、心に留めておいて」
「月神子……、強いのかい?」
「彼女は魔眼という悪魔の力を開くことが出来ます。私と能力は拮抗していますから、油断は出来ないわ」
「なんか、不思議な世界に入った気分だ。でも、現実の話なんだね」
「これが、あなたが背負わなければならない現実よ」
末那の吸い込まれるような黒い瞳が、天良をまっすぐに見つめ、近付いて来た。そして、
「逃げるなら今よ」と、囁いて瞼を閉じた。
「……」
天良は、ごくりとつばを飲み込むと、意を決して末那の唇に自分の唇を重ねた。
(これで引き返せない……のか)
そんなことを思いながら、彼は末那の身体を静かに抱きしめた。