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誰の愛もいらなかった
ただ、あなたのそばにいられるのならば
何も
何一つ
望まなかったのに
空はラベンダー色をしていた。
美しくて物悲しい、憧憬の色。
焦がれて止まない、あの人の色。
緑そよぐ草原と空は地平線で交わり、あたかも世界全体が花畑のようだった。
それは、夕刻になった合図。
薄黄色の太陽が沈むにつれ、空は限りなく漆黒に近い紫に変わっていくだろう。
上空を仰ぎ、はたはたとシャツをはためかせていた少女は、踵を返す。
ただ己一人を待つ我が家へと。
イチカの一日は夜明けとともに始まる。
空が薄らと明るいピンク色に染まり始める中、イチカは粗末なベッドから起きだす。
卵を産む鶏に餌をやり、乳を恵んでくれるヤギには藁を与える。
そして、小さな家の前に作られた、小さな畑に水をやる。
水は近くの小川から汲んでこなければいけない。
桶を両手に、イチカは小川へと向かう。
川は、イチカの家から歩いて10分ほどした所にあった。
森の中に入りしばらく行くと、水の流れる澄んだ音が聞こえてくる。
その頃になると、木々の間から見える空はごくごく薄い、白っぽい紫色に変っている。
季節が夏であれば、イチカはそこで手早く水浴を済ます。
誰かに見られている心配はない。
この地に住み始めてから、一度として他人に遭ったことはない。
2つの桶をいっぱいにして、よろよろしながら我が家に戻ると、イチカは水やりを始める。野菜はイチカの腹を満たしてくれる分だけ育てている。
全てが自給自足の生活なのだ。
服がほしければ、近くに自生する麻を干して繊維をとり、機織り機で生地を作る。そこから同じように繊維を撚って作った糸と、手作りの針で縫っていく。
冬ならば森に入り、獣を狩って毛皮を手に入れるのもいい。
昔は自分で服など作れなかったし、裁縫もあまり得意ではなかった。
けれどある人に教えられ、イチカは一人で生活できる力をすべて身に付けた。
山を下れば町があるのは知っていたが、大人の足で5時間はかかる。
天候の影響で作物の生育がよくなく、本当に食糧が尽きたときにだけ、イチカは町に降りる。それ以外は、イチカには町に行く必要も、行きたいという気もなかった。
朝の一仕事を終え、イチカはようやく朝食の用意に取り掛かる。
庭で採れたかぶらを煮込んだスープと、小麦をこねて焼いたパン。
本当ならお米が好きだったが、この地には育たない。
採れたての卵で作った目玉焼きをパンの上にのせ、ヤギのミルクを用意する。
当然、イチカは一人っきりなので会話はない。
ただ、まったく話さずにいるとしゃべれなくなるとは聞いていたので、イチカは毎日、鶏に話しかけたり、ヤギに話しかけたり、はたまた本を朗読したり、声を出すように努めている。
また、身体もなまるといけないので、昼間は庭先で剣術の稽古もかかさない。
相手のいない稽古は、素振りという名の運動で終わるのだが。
暇なときは弓矢を作ったりして、冬に必要になるだろう弓矢の稽古もする。
イチカの腕前は、自己評価では相当なものだ。
それも、第三者の目で評価をしてくれる人がいないので仕方がない。
人はこのような存在を、世捨て人という。
彼女の容貌は中の中。
ただ一つ人目を惹くとすれば、それは奥深い緑の瞳だ。
平凡な顔に浮かぶその瞳は切れ長で、星を浮かべたように煌めき、惹き込まれる。そこだけならば端正といってもいい。
あとは細身で、女性というには貧弱な身体。
肩まである茶色い髪は、無造作に一つに縛られている。
イチカが女性らしく髪を伸ばしているというわけではなく、ただ単にそれが彼女が自分で切りやすい長さだというだけだ。
「チチチッ」
「ああ、ハチ。今日も来たの?」
ひとつ忘れていた。
彼女の唯一の友達、クマリスのハチ。
飼っているわけではないのだが、朝食が終わるころに毎日彼女のもとに現れ、一日を彼女のもとですごす不思議な森の動物がいる。リスという名が付くのに、小鳥のような外見をしている。
ある人の話によると、クマリスはその名に反して身体は大きくならず、そして長寿の生き物なのだという。人の言うことを理解できる、犬並みの知能も持っているらしい。
だからイチカは気まぐれにハチと名付けた。
抵抗しないところをみると、相手もその名を気に入っているようだ。
「ハチ聞いてよ、今日さー、鶏の卵3個もゲットしたんだよ。すごくない?」
イチカはここぞとばかりに、ハチを話相手にする。
もちろん、ハチからの相槌はない。
これが、イチカの日常。
ただ淡々と続いていく。
きっと、死ぬまで。
幸せでも不幸でもない、そんな生活。
そう信じて疑わなかった日々が、もうすぐ終わりを迎えることを、彼女は知らない。




