Gravity - 007 - 青年たちがすれちがう話
小室にとって、「恋人はこうする」というものがある。
暇なときは和真をどこかへ連れ出し、水族館だのレストランだの、いろいろな場所へふたりで行った。人目があまりないところでは手をつなぎ、ふたりきりになるとハグをした。
――恋人って、そういうものだろう、多分。
和真の家でのんびり過ごすことも多かった。
二十歳もすぎ、酒の味も覚えつつあったふたりは、コンビニで適当なアルコールを飲みながら、ほろ酔いで取り留めもない会話をくり返す。教授のものまねだとか、そろそろ就活だとか。くだらない話ばかりだった。
きっかけは何だっただろう、確か、最近は男も基礎化粧品を使う者が多いとか、そんな話だったと記憶している。
「最近リップクリームの使用をはじめました」
「なんで? 乾燥?」
「はい、よく皮が剥けてしまって」
「えー、見せてみ?」
和真がよく見えるようにと、少しだけ唇を突き出した。
どくんと心臓が跳ねる。薄い唇から、目が離せなくなった。
「小室くん?」
気づくと、和真の肩をつかみ、口付けていた。
一度離れて、衝動のままもう一度ふれあう。
見なくとも顔が赤いのがわかる。肩に置いたままの手のひらが熱い。
「……そ、そろそろ帰るわ」
「……はい」
帰り道、まだ熱い手のひらでぎゅっとコインを握る。
やわらかい感触が、また唇に残っている。
さっきのことについて考えようとすると、うまくまとまらない。落ち着かない。妙にそわそわする。コインを指でこすりながら、小室は寮までをわざとゆっくり歩いた。
***
翌日。和真の顔を見ると、昨日の感触がぶり返した。
視線をそらす。落ち着かない。
「……なあ」
「はい」
「…………やっぱり女がいいとか、言わないよな」
「言いません、性別は本質的な問題ではありません」
「…………悪い、急に考えちまって」
何か、それまで保たれていた均衡を、失った感覚がある。
昼食を一緒に摂ろうと約束していたので、食堂の前で和真と待ち合わせた。食堂の前で、和真が女の子と話している。女の子はくすくす笑っている。ふたりの距離が、近い気がする。
話し終えた和真が小室の方を振り向いた。
「小室くん」
「あいつ誰」
「同じ専攻の友人です」
「……友人、ねえ……それにしちゃ近くなかったか?」
「そうでしょうか」
「……まあいいわ」
なんでこんなに苛つくんだろう――別に、自分には関係のないことだ。
後日小室は、講義がよく被る女の子に、ご飯に行こうと誘われた。特段断る理由がないので行くことにした。
和真に「ちょっと飯行ってくるから、今日は一緒に帰れない」と伝える。「そうですか」としか返ってこなかった。
同じ学科なので話は合うし、楽しくなくわけではない。ただ、なにかが違う、と思う。どこか上滑りしているような感覚だ。
和真への返信が、遅れるようになってきた。
既読はつけるが、そのまま放ってしまう――どこかで返さなくてはと思ってはいるのだ。返そうと思えば返せるような内容にさえ、指が動かなかった。
気づくと1日中返していないこともあった。
「気に、なんないわけ」
「忙しいのかと思っていました」
「……あっそ」
ときどき、離れられなくなる日がある。
なぜかは自分でもわからない。抱きしめたまま、どこにも行ってほしくない。
和真に身じろぎされると、離れていってしまうのかと思って、腕に余計力がこもる。
「……なあ」
「はい」
「下の名前で呼びたい」
「どうぞ」
「…………和真」
「なんですか」
「俺のことも憂って呼んで」
「はい、憂くん」
「ずっと憂って呼んで」
「わかりました、憂くん」
ふは、と笑いがこぼれる。
なぜか、嬉しくてたまらない。
***
雨が煩わしい日だった。
突然和真に会いたくなった。いても立ってもいられずメッセージを送ると、「いつでも来てください」と言われ、傘をさす時間ももったいなくてそのまま駆け出す。
びしょびしょになった小室を和真はタオルで拭いて、小室には少し小さい部屋着を差し出した。
「なあ」
「はい」
言うのを迷ってしばらく黙ってしまった。
他の話題にしようと思った、はずだった。
こんなこと聞いても仕方がないのに――
「…………俺のこと嫌いになってない?」
口をついて出た。
「はい、なっていません」
「腹立たねえの、他のやつと仲良くしたり、連絡無視したり」
「わざとだったんですか?」
「……そーだよ」
「君は彼女を友人だと言いました、ならば友人でしかない。僕は君の言うことを信じます」
「あ、ああそう……」
その日は和真の家に、半ば強引に泊めさられた。
狭いセミダブルのベッドにふたりで並んで眠る。一緒に寝るのはあの日以来だなと思い出した。
***
先日も誘ってきた女の子がまた飲みに誘ってきた。
あさはかな下心は見えていたのに、小室はそれに乗った。
和真の顔が脳裏にちらつくが、見て見ぬ振りをした。
邪魔の入らない個室の居酒屋に、女とふたりで座る。
向かいにも席はあるのに、女は隣に腰かけた。
そして案の定、しなだれかかる女に、
「ねえ、この後……」
と誘われた。
断ることができず、女は腕に絡みついてくる。体は汗をかいているのに、腹の底が冷たい。このまま、走って逃げ出してしまいたい。
ろくに食事も取らないまま、ふたりで店を出た。
歓楽街の、けばけばしい色のネオンが小室の横顔を照らす。
そのときまった。
ホテルまでの道中、前方によく知った姿――和真が見えて血の気が引く。和真は小室を一瞥して、目を逸らした。
「あの……さ、」
「ん? なあに?」
「…………ごめん、やっぱ行けない……」
「はあ!?」
「ほんと、悪い」
「今さら何なのよ!」
和真はどんどん近づいてきた。
いつもどおり――いやいつもに増して、感情が見えない。
「か、和真…………」
「憂くん」
「ちが、違うんだ……」
「違うんですね?」
「ああ、これは、違って……」
「でしたら、問題ありません」
それだけ言うと、和真はそのまま立ち去った。
「…………あの男、いつも一緒にいるやつじゃん」
「……関係ない」
「……あーそういうことね……あんた本当に、最っ低」
女の子は小室の頬をひっぱたき、去っていった。
なんてことをしてしまったんだろう。
小室はポケットのコインを握り潰すほどの強さで握りしめた。コインの縁が食い込んで、手のひらが痛い。
翌日、やはり学内で「小室と葛が付き合っている」と言う噂が立っていた。顔から血の気が引く感覚がわかる。なんてことをしてしまったんだろう、自分のせいだ――和真まで、巻き込んで…………
「……憂くん」
「…………う、ん」
その様子を見た和真が、小室をアパートに連れ出した。
アパートに着くと、中はひどく蒸し暑かった。
和真は、小室に座るよう伝えてから、グラスに麦茶を注ぎ、手渡す。
ばくばくと心臓が暴れた。和真が何をしようとしているのか、小室には見当もつかなかった。
口を開く以外に、できることがわからなかった。
「…………あ、あれはほんの気の迷いで、結局なにもしなかった」
「そうなんですね」
「そうなんだ……信じて、くれ……」
「信じます」
和真が、少し困ったような顔をした。
どうして、お前が――小室は叫んでしまいそうになる。
「……なんで……」
和真が何を言おうとしているのか、わかるようで、わからない。
「僕は勝手に君を好きでいて、勝手に君を信じています。不快感を覚えたり……独占欲を抱たりすることもあります」
「…………っ」
「あまり立派とは言えません、僕は、身勝手に君を信じているだけです」
涙が、出そうだ。
「…………さて、君は近頃、ずいぶん身勝手な言動をしてくれましたね…………ですが、僕も同じようなものです――おあいこ、と言うことで今回は手を打ちませんか?」
こらえることができず、ぼろ、と片目から涙がこぼれた。慌てて裾で拭っても、次から次にあふれてくるものを、止めることはできなかった。
「…………お前は、何でそんなに平気なんだよ、俺……めちゃくちゃなのに……」
「平気ではありません、流石に今回は不快感を覚えました」
「…………そう、だよな」
「……僕のような人間が言うと奇妙に思うかもしれませんが……おそらく人とは、このような衝突を繰り返して、それでもそばにいる人間を、選んでいくものだと考えています。事実、君は何度も僕を選んできました」
「…………うん」
「僕にとっても、それが君というだけです」
小室は、つい和真を強く抱きしめた。
「苦しいですよ」という声が、ひどくやさしかった。
噂はあしらっているうちに消えた。
和真に信じられることが、許されることが、体の震えるほどに嬉しくて、それでいて信じられなかった――自分に、「信じる」をできる気がしなかった。




