Gravity - 005 - 青年たちがもがく話
何がきっかけだったのだろう。一緒に受けている、海外の古い映画を鑑賞する講義の後だった。その日は特にひどい発作が出ていた。
ようやく落ち着いた和真に、「俺には、話せそうか」と聞いた。
答えは、「検討します」だった。
それから3ヶ月経った。
東京の冬は厳しく、突き刺すような風が吹いて、たまに地元に思いを馳せたりしている。
ある日、落ち着いたり崩れたりを繰り返していた和真に、家に呼び出された。
はじめて足を踏み入れた和真の部屋は、何もない殺風景な部屋だった。机とベッドと、あとは本が数冊あるくらいだ。少しの隙もなく整頓されている。
座るようなところもないので、勧められるままに、ふたりで隣あってベッドに腰かけた。
沈黙が続く。
壁掛け時計の秒針の音だけが静かな部屋に響く。
「小室くん」
小さな声で和真が呼んだ。
らしくない、切羽詰まったような、何か覚悟を決めたような面持ちだった。
「少し、個人的な話をしても?」
「ああ」
和真の視線がさまよった。どこかを見て、小室を見て、また下の方に泳ぐ。唇がわなないていた。話したくないのは容易に見てとれた。
「僕のお母さんの話です」
「うん」
「お、お母さんは……お母さんは」
「……うん」
「……ぼく、僕が、8歳のときに、8歳のときに」
「うん」
「……弟と、おと、弟と一緒に……僕を置いて、出て行きました」
「…………うん」
和真の呼吸が荒くなる。
「……おかあさん……」
涙は流していなかった。
ただ、必死な声色だった。
小室に、言うべき言葉は見つからなかった。少し強引に、和真を抱きしめた。
ひどく乱れていた呼吸が、少しずつ、落ち着いてくる。
「話してくれてありがとう」
「……いえ、聞き苦しい話を、すみませんでした」
「聞き苦しくねえよ、ありがとう」
「はい……」
どれくらいそのままでいたのだろうか。
小室は、その間考えていた。
自分を救ってくれた和真に、何を、してやれるだろうか。
「あのさ」
「はい」
「お母さんに、会いに行こう」
***
それから2週間後、小室と和真は博多行きの新幹線に揺られていた。
離婚したときから、和真と彼の弟は常に連絡を取れるようにしてもらっていたらしい。その弟は、今も母と住んでいる
母親とも、会おうと思えば会えた。でも会わなかった。誘ったときも、断られるかと思っていた。予想に反して、和真は、ただ頷いたのだった。
博多駅の雑踏に、少し発作が出る。
「一旦休むか?」
「……いえ問題ありません」
博多駅から母の住む家までは、一度乗り換えを挟んで電車で30分ほどある。
電車に揺られていると、あたりの景色が緑に染まっていき、どんどん人が減っていく。ひとり、またひとりと電車を降りて、車両に残っているのはふたりだけだった。
乗り換えの駅に着いた。
耳障りな音を立てて電車がすべりこむ。
和真は、ドアの前に立ち、そのまま発車を見送った。
乗ることができなかった。
20分後、また電車が来る。また見送る。
そして、
「…………乗ります」
ようやくふたりは3本目で、くすんだ朱色の、2両編成の私鉄に乗り込んだ。
最寄り駅までの5分が、ひどく長く感じた。
冬の日照時間は短い。もうかなり日が落ちてきている。
家と田んぼしかない細い道を、何度も立ち止まりながら歩いた。風が吹くたびにかさかさと乾いた草の音がした。
ときどき軽い発作が出て、そのたびに小室は和真の背中をさすったり、ペットボトルの水を差し出したりした。
15分ほどで、ふたりは小さな一軒家に着いた。
表札には「伏見」とある――和真の母の苗字だ。
緊張で体が震えている人間を、はじめて見た。
ひとごとながら、ただインターホンを押すというだけの行為が、こんなに恐ろしく感じるとは思わなかった。
ピンポン、と軽い音がして、和真は2歩ほど後ずさった。
扉の向こうで誰かの足音がする。近づいてくる。立ち止まる。ドアノブが回る。ドアが、ゆっくり開く。
「……和真?」
和真の母だ、紛れもなく。雰囲気がそっくりだ。
ドアノブを掴んだまま、和真を見つめて固まっている。
「和真です。お母さん」
途端、和真の母の両目から、とてつもない量の涙があふれた。小室も少し目頭が熱くなり、慌てて押さえて目を逸らした。
ずず、と大きく鼻をすすった和真の母は、スリッパのまま玄関を飛び出して和真を両腕いっぱいに抱きしめた。
小室は1歩だけ後ろに退がる。
「かずま、かずま……」
「はい」
「和真、ごめんね」
「……はい。お母さん」
「ごめんね、こんなお母さんでごめんね」
「…………はい」
どうして人には別れがあるんだろう。
答えは、出なかった。
***
立ち話もなんだからと、少しだけ和真の母の家でお茶をいただいた。それから、もう日も落ちているのでホテルへの帰路に着いた。和真の母はからりとした明るい人だった。ありえたかもしれない未来を、覗き見てしまったような気持ちになった。
和真は帰り道も無言だった。
だが来るときの無言とは明らかに質が違う。きっと彼なりに、いろいろな感情を整理しているのだろう。
励ましたいと思った。ただ、それだけだった。
「……小室くん?」
見開いた目と目が合う。
小室はほとんど無意識に、少し背の低い頭をなでていた。
自分でもびっくりして咄嗟に手を引く。
「悪い」
「いえ、心地よいと感じました」
「そ……う、か」
手のひらが熱い。
顔も熱くて、おかしくなりそうだ。
自分は何をしでかした? それに和真はなんと言った?
12年ぶりに母に再会した帰り道だというのに、自分は何をしているのだろう。
夜でよかった。
夜風が頭を冷やしていく。
それでも、手のひらの熱だけは、なかなか引かなかった。




