Gravity - 004 - 青年たちが立ち止まる話
入学式は、大学の近くの大きなホールで行われた。
着慣れない新品のスーツに身を包み、小室は新入生の席に着く。隣に和真はいない。当然のように主席合格だった和真は、新入生代表の挨拶をしている。
澱みなくさらさらと読み上げる姿を見て、やはりすごいなと思った――小室憂にとって葛和真は友人で、恩人で、師匠で、「超人」だ。
***
大学入学に先立ち、再び立ちはだかる壁がある。入学資金だ――まとまった金を用意して期日までに入金する必要がある。わかっていたのに、逃げつづけていた。
しかし、悩んでいても、現実は待ってくれない。和真の父に頭を下げる以外の選択肢が見つからない――そう覚悟を決めたとき、葛の家に電話があった。
「小室くん」
「あ、はい」
「君に電話だ」
***
翌日は晴天だった。
いよいよ春の盛りという清々しい空気が街を包んでいる。電話の相手は、父だった――葛の家の電話番号を調べてかけてきたのだった。会って話したいことがあると言う。今さら、一体なんの用だろう。
アパートは葛の家からもそう遠くなく、すぐに到着した。なかなかインターホンを押す気になれなかったが、小室の気配に気付いたのか、母が玄関のドアを開けた。
「あー……来たけど」
「……は、入って?」
足を踏み入れて、小室は言葉を失った――あんなに荒れていた家が片付いている。そして、静かだった。
小室が入って、すぐに父親も部屋から顔を出した。ふたりとも、ひどく緊張した面持ちだった。
4人掛けのテーブルに向かいあわせで座る。居心地が悪い。黙ったままの両親に痺れを切らし、「用がないなら帰るけど」と言いかけたときだった。テーブルに額をこすりつける勢いで、父と母が小室に頭を下げた。
「今まで、すまなかった……!」
「…………今さら何」
「あんたがちゃんと学校に通ってるのを見てて、私たち何してるんだろうって思ったの」
「バイトもスナックも辞めて、派遣だけど、仕事に着いた」
「……そう」
「人づてに、あんたが大学に受かったのを聞いたの」
小室は、テーブルに落としていた視線を少しだけ上げた。
「全部の金は出せないが……入学金だけでも、出させてくれないか」
憎んでいたと言っても過言ではない両親から、「はいそうですか」と金を受け取ることはできなかった。その日は一睡もできず、親指の腹でコインをさすりつづけた。
翌日、手書きのメモで受け取った番号に、電話をかけた――すっかり忘れてしまっていた、自宅の電話番号だ。
そうして入学金問題は幕を閉じた。
小室は知った――憎しみさえ抱いた家でさえ、変わっていくのだということを。
***
そうして、大学生活がはじまった。
講義の選択に、バイトも探さなくては。新歓コンパがいろいろな括りで開催され、サークルの勧誘があちこちから来る。
和真も例外ではない。主席合格と、入学式での完璧なスピーチが相まって、同級生からOBから、とにかく声をかけられる。クイズ研究会だの英会話サークルだの、頭脳系のサークルからは勧誘がひっきりなしだ。
大学にはいろんなやつがいる。どちらかといえば遠巻きにされていた和真が、囲まれることが多くなった。連絡先教えてだとか、サークルどうするのとか、そんなことを聞かれて、和真はいちいち律儀に答える。妙にしんどそうに見えるときもある。
教えなくてもいいだろ、ということばを、小室はすんでのところで飲み込んだ。
小室は学校の寮に住んでいるが、和真のアパートもたまたま最寄りが同じ駅だ。小室と和真は、地元から遠く離れた東京に顔見知りもおらず、なんとなくいつも一緒にいて、なんとなくいつも最寄り駅まで一緒に帰っている。
(…………帰るか)
声をかける理由がないし、待つ理由もない。
今までバカ真面目に一緒に帰っていたことの方がおかしいのだ。
あれだけ囲まれているのだから、そのうち和真にも、自分より仲のいい友人ができる――なんなら、いつかは、恋人も。
そう思った瞬間だった。
「小室くん」
和真にしては大きな声だった。そんな声出るのかと驚いた。振り返ると、和真が同級生たちを背に小走りで近づいてくる。
「あいつらよかったの」
「はい、用件は済みました」
「あそ」
「帰りましょう」
「……おー」
帰り道は大抵たわいもないことを話して帰る。
この大学の蔵書数はすごい、やはり目の前にすると圧巻だ、とか。著名な教授が何人もおり、やはり先行研究を学ぶならここだ、とか。
(なんか近くね?)
和真は夢中になって話している。明後日の空きコマで「惑星クン・ジ・ジ」を観る予定なのだとか。なんだその映画。
本当に夢中で、気付かないのだろう。不意に、ぶらぶらと揺れていた手が、触れあった。ほんの一瞬だった。
何か妙な感覚が、指先に残った。
「すみません、話に夢中になってしまいました」
「別に、いーよ」
こんなやつだったかなと考える。
もっと他人を警戒していて、近寄らせないような印象があった。何か心境の変化でもあったのか。
他のやつにも近いのかと思ったら、そんなことはなかった。明らかに一線引いている。そもそも和真はいつも、重たそうなショルダーバッグを肩にかけ、ストラップを両手で軽く握っていることが多い。
それが、自分といるときは、その手を自由にして――
「……いやいや考えすぎ」
自分はいったい何を考えているのだろう。
小室はぶんぶんとかぶりを振った。
***
家も近い、必須以外はかぶっている講義も多い。
必然と隣にいることの多いふたりは、たまにからかわれることがあった。
「小室と葛くん、いつもいっしょだよな」
「もしかして付き合ってんの?」
馬鹿げた軽口だ。
本当に、馬鹿馬鹿しい。
「友人です」
「……そういうこと」
「えー、なんか含みあるくない?」
「ありません」
ちらりと覗き見た和真はいつもの様子だった。いつも通りの、小室の知る和真だった。
和真はふう、と大きな深呼吸をひとつした。
***
息苦しかった制服は脱いで、己のままぶつかる学生生活は小気味よくすぎていく。そう思っていた。
2限連続で別々の講義が続いたときだった。小室が大講義室に移動しているとき、遠目に、和真の姿が見えた。背を丸め、ふらふらと校舎の裏に隠れていった。
様子がおかしかったが、同級生に呼び止められてその違和感を探ることはできなかった。
その光景を小室が次に目の当たりにしたとき――じっとりとした梅雨の気配から逃げるように、和真はよろよろと、薄暗い空き教室に入っていった。
小室は、考えるよりも早く動いていた。一緒に移動していた同級生を置いて、その教室めがけて駆け出していた。小室を呼びかける声が遠い。
人目を避けるように、教卓の裏でいびつな呼吸をくり返す和真に、驚かないようにそっと声をかける。
「おい」
「……っ、はっ、小室、くん」
「大丈夫か」
「すみま、せん、見苦しい、ところを」
小室は和真の背中に手を回し、さすってやる。
「ゆっくり息して」
「はっ……は……っ」
「しっかり吐け」
ふうぅ、と歪な吐息が、がらんどうの教室に響く。
「そう、そう」
「……はぁ……っ、はあ」
「焦んなくていいから」
教卓の天板に置かれていた和真の手が、いつのまにか小室の腕を強く握っている。必死の力だった。
「落ち着いた?」
「……すみません」
「いいって」
「見苦しい、ところを」
「……別に」
真っ青な顔だ。
和真はもともと色が白いが、さらに血の気が引いている。
葛の家のことが、頭をよぎった。
あの家には一切の「母親の痕跡」がない。いっそ不自然なほどに。アルバムも、ビデオも、写真立ても、何もなかった。思い出話のひとつも、和真と父の口から出たことはなかった。
整っていると思っていた葛家が、なんだか空恐ろしく感じたのをおぼえている。
「今日は帰ろうぜ」
「まだ、3限が……」
「じゃあどっかで少し休もう。落ち着いてから、な」
「……はい」
結局、体調を崩したままの和真をアパートに送っていった。講義をサボることを、終始和真は嘆いていた。
そんなことが何度かあった。
世界は何も知らぬ顔で季節を進めていく。
夏も盛りの頃。
2人で隣町の博物館を訪ね、その帰りの電車の中だった。
和真はいつも通りに落ち着いている。
「……1個聞いていい?」
「はい」
「よく、ああなるのか」
「……はい」
無言の時間が続いた。
それ以上、問いただす気はなかった。
和真が、いつもよりもっと静かな声で続けた。
「特定の状況で、過去の記憶が想起されます」
「……そっ、か……まあ、しんどいときは言えよ」
「……はい」
それから何度かそういう場面に遭遇した。そのたびに小室は和真に寄り添った。春より、悪化しているような気がする。
ただその和真本人は、そのことに対して、何も言わなかった。




