Gravity - 003 - 少年が立ち向かう話
迷いは消えた。
やるべきことはわかった。
何より、和真に言われたことを、なかったことにはしたくなかった。
小室は、意を決して和真の父の部屋を訪ねた。
「ご迷惑は承知です」
無理を言っていることはわかっている。友人の父に、まだ世話になりたいとお願いするなどと。
和真の父に、土下座をする勢いだった
「本当に申し訳ありませんが、あと1年の猶予をもらえないでしょうか」
「猶予をもらって、どうするつもりだ?」
「浪人をして……星ヶ関をもう一度受けます」
「受からなかったら」
「そのときは……諦めます」
本気だ。
それでだめなら、他の大学に――いや、進学は諦める。それでもよかった。
「その覚悟があるなら、がんばりなさい」
「……はい!」
それから2週間ほど経った日のことだ。
和真が、話があると父の部屋に入って行った。30分ほど話していたと思う。出てきた和真は、珍しくツヤツヤの晴れやかな顔をしていた。
「どったの」
「医学部を辞めます」
「………………えっ?」
「僕は大学で哲学を学びます。許可が降りました」
「……まあ、いいんじゃね。 お前がそうしたいんだろ」
「はい。君ならそう言ってくれると思っていました」
珍しい笑顔。
和真は嬉しいことがあっても滅多に笑わない。
表情筋が固まっているのか、ほとんどぴくりともしない――あの、中学の日以来か。
からかいがてらつねってやろうと、不意に手を伸ばしたが、触りはしなかった。その手は宙をさまよって、行き場をなくした。
触ることが、できなかった。
「……小室くん?」
「ちょ、ちょっとコンビニで買うもんあった」
「何ですか? この時間の糖分の摂取は、」
「いろいろ!」
パーカーを乱暴に羽織って飛び出す。ポケットに手をつっこみ、コインをなでる。
心臓がバカになってしまったみたいだ。なんでこんなにドキドキするんだろう。
和真の、滅多に見られない笑顔――小室は、それに触れることができなかった。
それからは、2人して受験勉強の日々がはじまった。
小室は自室か、特に集中したいときは、近所の図書館の自習室で。
和真は教室か、ときどき学校の図書室で。
文転の和真は、今から倫理政経や歴史の勉強をはじめる必要があり、流石に少し焦りを感じているようだった。
1年の猶予をもらった小室とは違い、「葛」の意思に逆らう和真は今年しか受験が許されないらしい。今年失敗すれば医学部ルートに後戻りだ。
起きては勉強、食べては勉強、空いた時間は勉強、勉強、勉強。疲れ果てて寝ては起きて、また勉強。
びっしり書き込まれたノートが溜まっていく。
とにかく読み込んだ教科書も、「英単語これだけ!」の帯の付いた単語帳も、買い直した赤本も、汗と手垢でよれよれになっていく。
小室はたまに高校受験のことを思い出して、どっちがマシかなと考えた。
夏も終わりの頃。
勉強のしすぎでほてった頭を冷やそうとベランダに出ると、同じ目論見らしい和真がアイスをかじっていた。いつだったか、和真が氷菓は夏の勉学のお供ですと言っていたのを思い出す。
夜風に吹かれながらぽつぽつと雑談が続く。
そういえば、と小室は切り出した。
「そういやお前どこ大目指すの」
「星ヶ関大学です」
「……えっ」
「えっ」
「……奇遇、ですね」
「本当に、奇遇ですね……」
流石に和真も驚いていた。
後から知ったが、星ヶ関は哲学のメッカと呼ばれるくらい、人文学部哲学科が有名な大学だった。
***
受験当日。
当然同じ日に同じ建物で2次試験を受けるふたりは、同じ新幹線の隣の席に乗って東京を目指した。せっかくなのでと駅弁を買って食べたが、正直味がしなかった。
――これが最後のチャンスだ。
去年は東京がひどく遠く感じたが、今年はあっという間に品川駅に着いた。
センターも二次試験も、1年前より手応えがあった。
ともあれ、これで受かっていなければ星ヶ関への挑戦は終わりだ。どちらにしろ、この生活は幕を閉じる。
「世話んなったな、本当に」
「小室くん」
「なに」
「僕はまだ、君を世話するつもりでいますが」
「…………合格してたら、頼むわ」
合格発表の日。
星ヶ関大学の合格発表はネットと掲示板の両方で行われるので、葛家のリビングに集まり、ノートパソコンで結果を見ることになった。
和真の父も結果を気にしていたのか、忙しい仕事の合間を縫って有給を取って自宅にいた。ソファで新聞を読むと言って、1時間経っても全くめくっていない。
小さな画面を、隣り合って見つめた。
発表の時間になり、和真がまず心理学部の結果を開く。
アクセスが集中しているのか、なかなか表示されなかった。
「3373…………」
番号はすぐに見つかった。
小室は、星ヶ関大学 心理学部に受かっていた。
次に、人文学部哲学科の結果発表のページを開く。
番号は0823。ローディングに時間がかかって、なかなか見つからない。
ドキドキする、なんなら自分のときより緊張するかもしれない。和真が真剣なまなざしで自分の番号を探すのを、横目で眺める。
「……ありました。合格です」
和真も、受かっていた。
小室は正直、ちょっと泣いた。
春瀬のときも泣きはしなかったが、流石に涙が出た。
和真は当然みたいな顔して、頬が紅潮していた。嬉しいんだなと思った。
つねってやろうとして、やっぱり触れなかった。
「……夕食を買ってくる」
結局、新聞を一度もめくれなかった和真の父が、そわそわした様子で財布を持って玄関を飛び出して行った。
「受かりましたね」
「ああ、受かったな」
「星大生ですね」
「星大生だな」
「おめでとうございます」
「お前も、おめでと」
和真の父が合格発表の画面をスクリーンショットで撮って、後で印刷してどこかに送っていたのは、また別の話だ。
何はともあれ、春から大学生活がはじまる。
小室の隣には心強い友人、恩人、師匠――そして、名前のつかない感情を抱く男もいる。
これからも隣にいるだろう、まだあどけない横顔を、ふと見た。
いつかこの感情にも、答えが出るんだろうか。
でもきっと、きっとこれからも、何とかやっていける。




