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Gravity - 002 - 少年が立ち尽くす話

3話目

春瀬高等学校受験を前に、小室は現実問題に直面していた。


「俺……春瀬行けない」

「学力はかなりついてきたと思いますが」

「違う、金がない。受かっても……」

「なるほど」

「……悪い、こんなに世話んなったのに」

「わかりました。春瀬高校に合格した場合は、僕が支援します」

「……は? いや、なんで…………」

「合理的だからです」


2009年4月。

晴れて小室は春瀬生として学舎にいた。

結局、和真が用途がないとしていた金で、小室の入学資金はまかなわれた。

さらに、


「もうひとつ提案があります」

「……と言うと」

「僕の家に住みませんか? 君の自宅の環境はこれからの生活に不適切だと考えています」

「い、家?」

「その方が、合理的です」


和真の言う『合理的』はたまに意味がわからない。


念の為、両親に許可を取りに行った。

突然息子が家を出ていけばさすがにあの親でも驚きはするだろう。

その日、父はいなかった。どこに行っているのかも知らない。仕方なく、部屋着で昼下りまでベッドで横たわっている母に話しかける。


「母さん」

「……なに」

「俺、友達の家に住まわせてもらう」

「は?」

「高校受かったじゃん、そいつん家高校近くて、それで」

「あっそ、好きにすれば」


それだけだった。


それからはあれよあれよと言う間に春瀬高校への入学と葛家での下宿が決まり、準備に追われる日々だった。

制服の購入、教科書や学用品などの購入、筆記具などの準備、入学手続き、とにかくやることがたくさんで、あまりこのあたりの記憶がない。


生活費も自分でなんとか稼ぐつもりだったはずが、いつのまにか和真の父に負担してもらうことになっていた。和真がそのように工面していた。

小室には、できうる限りの礼を伝えることしかできなかった。


翌日、自宅に一度戻り、決して多くはない荷物を持って、両親のいない間に小さなアパートを出た。

その日は夕日がきれいだったことを覚えている。


和真は3兄弟の真ん中だが、兄は学業のために寮生活で、母親と弟は一緒に暮らしていないらしく、父と2人暮らしをしている。

同居初日、和真の父は夜中まで不在だった。とにかく仕事が忙しい人らしく、丸一日帰ってこないこともざらにあるらしい。

家政婦を雇っていて、その日小室は久々に人の手料理を食べた。献立は炊き込みご飯と焼き魚、きゅうりのたたき、なめこのみそ汁だったが、なんだかすごくおいしく感じた。

少しだけ、入学直後に行われる実力テストの勉強をし、そのあとは和真と2人でコーヒーを飲みながらたわいもない会話をして、歯を磨いてさあ寝るかとなったとき。


「小室くん、問題が発生しました」

「どした?」

「今日届くはずだった小室くん用の布団が、配送業者の都合で届きませんでした」

「まじか、親父さんのやつ借りるのは?」

「父は今日、夜中には帰ってくるので、使えません」

「来客用とか」

「うちに泊まりがけで来るような人はいません」

「じゃあ俺がソファで、」

「いけません、疲れが取れません」

「……じゃあどうすんの?」

「やむを得ません、一緒に寝ます」


もちろん抵抗したが、きちんとベッドで寝なければ疲れが取れず、疲れが取れなければ学業に支障をきたすと和真に押し切られ、渋々同じ布団に入った。

和真がお行儀よく仰向けで寝るので、気恥ずかしくて、彼に背を向ける形で横になる。寝つきがいいのか、すぐに隣から寝息が聞こえてきた。背中に和真の体温が伝わってくるような気がする。なんだか心臓がうるさい。鎮まれ鎮まれと唱えていたら、寝返りを打ったらしい和真の気配がさらに近づいた。呑気なやつだなと恨みすら感じる。神様俺を寝かせてくださいとしばらく唱え続けていたら、いつのまにか小室も眠りに落ちていた。


葛家の朝は早い。

まだ春休みなのだからゆっくり寝ればいいと思うのだが、休みの日でも朝7時には起きるのが決まりらしい。けたたましい目覚ましの音に叩き起こされた。目が覚めたら和真の顔が目の前にあって息が止まりかけた。

眠そうな声で「おはようございます」と言っている和真の髪が、寝癖でぐしゃぐしゃだ。笑いながら手ぐしで整えると、なんだか本当に家族みたいだった。




案外普通に生活ははじまり、案外普通に馴染んでいく。小室の高校生活はとにかく勉強、勉強、勉強で過ぎていった。受験の頃ほどではないが、和真に倣ってとにかく勉学に励む。それも、喧嘩に明け暮れた日々より、ずっとマシだ。

何より「帰る場所」ができたことが小室には大きかった。あたたかく静かで平和な家。怒鳴り声もすすり泣く声も、何かが割れる音もしない。静かすぎるくらいだ。

ほとんど和真との2人暮らしみたいな生活は楽しかった。初めは超人か何かかと思った和真も、意外と人間らしいところがある。生卵が好きじゃないとか、歯磨きが長すぎるとか、よく毛先を触る癖があるとか。指摘してみたら、和真は無意識だったらしく、目を丸くしていた。


日々は、目まぐるしく過ぎていった。


高2の春。進路希望を提出するよう指導があった。

考えなくてはならないとわかっていたが、将来のことを考えている余裕がなかった。俺は何大、私は何学部、とクラスメイトが話すのを横目に、小室は丁寧に進路希望のプリントをクリアファイルにしまいこんだ。


夜、ベッドに寝転がって、考えてみる。

今の自分が、大きな過ちを犯すことなく普通の高校生活を送れているのは、他でもない和真のおかげだ。

見つけてくれた。手を差し伸ばしてくれた。導いてくれた。獰猛な野犬のようだったこの自分を、呆れた様子も見せず。




翌日、小室は進路指導室にいた。


「随分悩んでいたようだけど、やりたいことは見つかった?」

「その、俺、実家があんまりうまくいってなくて……」


言葉を慎重に選ぶ。


「なんていうか、すげえ抽象的なんすけど、そういう人の助けになれたら、って考えてて」

「なるほどね。心理学を学んで、カウンセラーや臨床心理士なんかもいいんじゃないかな」

「カウンセラー……」

「色々考えてみなよ。心理学って色々な大学で学べるから」


そう言って、指導員の教員は小室にいくつかパンフレットを手渡した。たった2年と少し前まで想像だにしなかった世界が、A4サイズの冊子の中に広がっている。


帰ると、和真は先に帰宅していて、いつも通り姿勢よく本を読んでいた。

――将来のことを話してみようか。予想だにしなかった未来が待っているかもしれないことを。

小室は何気ないふうを装って、半分ひとりごとのように、「今日進路指導の先生と話した」とつぶやいた。すぐに和真は本を閉じて小室の方を見た。


「どんな話を?」

「なんか、カウンセラーとか、ナントカ心理士とか」

「心理学に基づく職業ですね」

「……俺に、人の気持ちなんて理解できるかな」

「君は僕のこともよく気付くでしょう」


さも当然のように、和真は言った。

そっか、とだけ返して、小室は自室に入っていった。ドアに背を預けて座り込む。信じられないような気持ちだ。こんな、こんな自分が、誰かを救う。そんな可能性が、そこにはあった。


***


心理学を学べる大学は日本中どこにでもあった。福岡にも数多くあって、今の成績なら選ばなければどこかしら入学できる。

その中で小室の目に止まったのは、特に親子関係や家族関係の心理学を専門に研究している著名な教授だった。親子、家族、まだ小室にとって痛いところだ――その教授は、東京の名門・星ヶ関大学にいる。




高校2年生の冬休み。

ソファに2人並んで座り、テレビも付けず何となく隣り合って座っている。不意に、伝えなければと思った。


「俺、東京の大学目指す」

「そうですか」

「これだってこと、見つけられた気がする」

「それは、」

「うん」

「…………さみしくなりますね」


はじめて聞く、和真の、揺らぎをはらんだ声。

顔を見ることができない。


「お前はどうすんの」

「このまま、清里大の医学部を目指します」

「そっか、そうだよな」


何も言えなくなって、迷った末に、軽く肩を叩いた。


「今生の別れじゃねえし、まだ受かってもねえし」

「そうですね」


しんみりするのが嫌で、「ああ腹減った」なんて嘘を言った。


そして季節はめぐり、高3の秋。

毎日机にかじり付いては疲れ果てて気絶するように眠る日々。

模試の結果は、よくはない。




試験が近づいた年明けのある日、小室は夜中まで赤本を解いていた。

まだ解き足りない。そう自分の中の自分が訴えてくる。休むことさえままならなくて、ただ問題を解いている時間だけ、許されたような気持ちになる。ときどきポケットのコインに触れて、呼吸を整える。


こんこんと、ノックの音とともに、和真が入ってきた。手には湯気の立つマグカップが握られている。


「差し入れの頭脳ジュースです」

「……なつかし」

「寒いのでホットです」

「絶対まずい」

「味見をしましたがまずかったです」

「本当にまずいのかよ」


いつも通りの和真の調子に笑いが吹き出る。

そして、小室は恐ろしくなった。


――俺は、今これを、手放そうとしている。


夢を追って、自分の人生を生きているはずなのに。

大きな一歩を踏み出そうとしているのに。

唐突に、この日々との、和真との別れが恐ろしくてたまらなくなった。


「小室くん」


呼ばれてはっとした。


「顔色がよくありません。今日はもう休んでは?」

「んー……そうする」


その日はよく眠れなかった。

何度も寝返りを打ち、浅い眠りに落ちては悪夢を見て目が覚める。

どんな夢を見たかは、朝になると覚えていなかった。


***


試験当日。

どんよりとした空から雪がちらついている。

もちろんセンターから二次試験まで全力を出した、つもりだった。

東京に向かう新幹線の中でも、居眠りもせず単語帳を繰り返し読んだ。前日に泊まったホテルの部屋でも、寝るまで過去問の解説を読んだ。


結果は不合格だった。

学校には行かなくてもいい時期だったので、小室は何もする気になれず、部屋で不貞寝をして1日過ごした。和真は何も言わずにそっとしておいてくれた。


モヤがかかったような頭で考える。

自分は今からどうすべきか?

後期試験で、念のため県内の大学を受けることにはなっている。

受かったとして、そこに行くのか?

来年に賭けるか?葛家に迷惑をかけて?

ここを出てバイトで食いつなぎながら浪人する?

現実的だろうか?


その日は答えが出なかった。

食事もろくに取らず、眠りに落ちた。

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