Gravity - 001 - 少年が目指しはじめる話
あの日も、いつものように重い足取りで家路についた。
夜になるといなくなるはずの両親の怒鳴り声が、まだ残っているかのように感じる。家に帰ると耳鳴りが止まらなくなる。
ポケットに手を突っ込むと、小さなコインと紙切れが指先に触れた。コインを避けて紙切れを握りしめると、先ほどのことがあざやかに思い出される。
少年は葛和真と名乗った。喧嘩なんてしたことはないだろう、清潔な制服。まっすぐな瞳、嘘のない声色。場違いなほど、まっさらだった。
何度も取り出しては握りつぶしたせいでぐしゃぐしゃになったメモを取り出す。几帳面な文字が少しにじんでいる。
『私立白嶺中学校』
『葛和真』
小さな声でその文字をなぞる。
不思議と耳鳴りが止んだような気がした。
***
そうして翌日、小室は私立白嶺中学校の門前に立っていた。
本当は来るつもりはなかった。どうせあんなのはただの冷やかしだ。馬鹿らしい。頭の中をぐるぐると逃げ腰のことばがめぐり、そうすると、葛和真の声がそれを蹴散らしていく。
――学問を極めませんか。
だせえな、とひとりつぶやいて、小室は重い門戸に手をかける。
白嶺中学校は、辺りでも有名な私立の学校だ。
自分が明らかに浮いていることがわかる。何か悪いことでもしているかのように思えて、小室は職員室であろう部屋の窓を恐る恐る叩いた。
間もなく教員らしい女性がひょっこり顔を出し、少し驚いたような顔をした。
「ご用ですか?」
「……あー、あの、カズラカズマくんという人に用事があって」
「葛くんね」
「え、あ、あの、本当にいますか?」
「ええ、あなた小室憂くんでしょう? 図書室で待っているって言ってたわよ」
「……待ってる?」
女性は質問には答えず来客用のスリッパを渡し、図書室は校舎とは別の建物だと教えてくれた。案内通りに歩くと、すぐに図書館に着いた。レンガ作りの立派な建物だった。蔦の絡む壁には、大きな窓がいくつも取り付けられている。
スリッパに履き替え、そっと建物の中に入る。嗅ぎ慣れないにおいがする。静かで、清潔なにおいだ。
周囲の様子を伺うと、玄関の正面の廊下の奥に大きな扉がある。すりガラスで中の様子はわからないが、静かで、本当に人――あの少年がいるのだろうか。ゆっくり扉を押すと、きいと金具が音を立てた。
葛和真は座っていた。
背後から太陽の光を受けて、本を読んでいる。
黒髪がきらきらと光る。
「お待ちしていました」
顔も上げずに言う、その声に小室ははっとした。
ぱら、とページをめくる音が響く。
永遠に思える時間、そこに立ち止まっていたと思う。
「小室憂くん。お待ちしていました」
「ま、待ってたって」
「来ると思っていました、座ってください」
勧められるまま、円形の大きなテーブルの、対面からひとつずれた席にぎこちなく腰かける。それを認めると、和真は開いていた本を閉じ、はじめて小室と顔を合わせた。
表情がまるで動かない。細く長い目。薄い唇。真白い肌。自分とは違う世界の人間だとすぐにわかる。
「君はまず春瀬高等学校を目指しましょう」
「は、はるせ」
「はい。清里や岡東も悪くはありませんが」
「せいり、おかひがし…………」
「偏差値と立地、教師の質からの総合的な判断です」
当たり前の顔で何を言ってるんだろう、この男は。
今まで出てきた校名は、全てこの辺りでは有名な進学校だ。
「まずは、」
「待て、ちょっと待ってくれ」
「不明点がありましたか?」
「いや、あの、あんたさ、言っちゃ悪いけど見当違いだと思うぜ」
「見当違いとは?」
まるで、それらの学校に小室が受かるかのような物言いだ。
「いや、春瀬ってよお……俺ろくに授業受けてねえし、勉強なんて何すりゃいいかわかんねえし」
「些細な問題です。君が今からすべきは『春瀬校受験の対策』。出題パターンはある程度決まっているのであとは試行と慣れです。大したことはありません」
「そ、うは言っても……」
「ここまで来て、怖気付きましたか」
ぴく、と小室の眉尻が動く。
「あ?」
「あの日の胆力は目を見張るものがあると思いましたが…………どうやら見間違いだったようです」
「こら待てや、誰が怖気づいたなんて言った?」
「違うのですか」
悪い癖だ。
売られた喧嘩は買う。
それがどんなに無謀でも。
「やってやるよ、春瀬でも清里でも何でもやったるわ」
「はい」
「…………へ?」
「それでは、一緒にがんばりましょう」
前言撤回だ。
喧嘩ではない――それよりもっとタチの悪いものを買ってしまったようだ。
***
和真が言うには、これからやらなくてはいけないことは、
「朝の自習」
「昼はできるだけ出席して学校で授業を受ける(ここでの理解度が指標になると言っていた)」
「放課後は和真に授業を受ける」
この3つだ。
「これ死なねえ?」
「死にません。実際僕はこのようなスケジュールで生活していますが、死んでいません」
「そうですか……」
正直できる気がしなかったし、それを平然とこなしている和真に薄気味悪さを覚えたのは事実だ。
――ただ。
毎日両親との会話はなく、小遣いと称して食費も含めたはした金を月初めに渡されるだけだ。バイトを転々とする父とスナックで働いて毎日酒臭く帰ってくる母。今日はどんなことがあったかなんて聞いてもこない。期待も愛情も感じられない。
これはチャンスだ。
この生活を抜け出せるかもしれないチャンスだ。
「やってやるよ、葛和真」
***
果たして地獄のような日々がはじまった。
朝は5時ごろに起きる。そうすれば大抵両親は寝ているので、自宅でも静かな環境で勉強ができる。勉強は中学1年生の頃からほとんどやっていないから、この時間帯にするのは1年生からの範囲の勉強だ。
学校の朝礼が行われるギリギリまで自宅で教科書を睨みつけて、1時間目から授業に参加する。
教室のドアを開けたときのクラスメイトの表情と言ったら、まるで幽霊でも見たかのようだった。それを無視して、小室は自分の席にどっかりと座った。
授業が終わると、足早に白嶺中学校の図書室に向かう。図書室だけ、市民であれば申請の上、使えるようになる。とはいえ利用者のほとんどは白嶺生だ。公立中学校の制服を着崩した小室は完全な異物だった。図書室では和真が勉強を教える。自習していたわからなかったところ、授業で疑問に思った点、とにかく何でも聞いた。和真は1学年下のはずだが、どんな質問にも必ず正確に答えることができた。
ある日聞いてみたことがある。
「自分のお勉強はいいのかよ」
「君に教えることも勉強です」
頭のいいやつは意味のわからないことを言う。
はじめのうちは、学校の授業を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。何を言っているのかほとんどわからない。
それが、ひと月ふた月と経つうちに、何となく理解できるようになってくる。問題は解けなくても、何が聞かれていて、どのような答えを出さなければいけないのかはわかる。これは小室にとって大きな変化だった。
とはいえ、5月に行われた中間考査の結果は惨敗だった。問題文を読んでも解き方すらわからないものもあった。返却されたテストは、いい方で20点台、ひどいもので1ケタの点数もあった。
解答用紙を和真に見せると、眉ひとつ動かさず「上出来です」と言った。
「どこが上出来なんだよこんなもん」
思わず小室は解答用紙ごと、手のひらをテーブルに叩きつける。図書館中の人間が一斉に小室を見て、そして目を逸らした。
「いえ、上出来です。この短期間でここまでやれれば、問題ありません」
言い返す気にもなれず、解答用紙を引ったくって、小室は図書館を飛び出した。
雨の街を走る。何が上出来だ。進学校を目指して、こんな点数でいいわけがない。馬鹿がもがくのを見て笑って楽しんでいるのだろうかとすら考えた。
次の日、学校に行くのも億劫だった。
行く当てもなく歩き回り、時間を潰す。もうこんなのは辞めだ。春瀬なんて夢のまた夢だったのだ。
――そう思っていたはずなのに。
目を閉じると和真の顔が浮かぶ。
淡々と話すあの顔が。
「……クソ」
そろそろ学校が終わる時間だ。和真は今日も待っているのだろうか。
小室は図書館を目指して走り出した。
***
地獄のような勉強の日々はまだまだ続いた。血反吐を吐くような、とはよく言うが、どれだけ努力しても血も反吐も吐かないんだということを知った。
そんなある日だった。
外はひぐらしが鳴きはじめて、もう夏も終わりという頃。
小室は和真と並び座る図書室で問題集を広げ、あ、と小さな声を上げた。
「どうしましたか」
「……わかる」
「はい」
「どうやって解いたらいいか、わかる」
要は、喧嘩と同じだ。
どこを崩せばいいか見極めればよかったのだ。
そこから7ページほど、和真の助けも借りず、数学のドリルを夢中で解いた。1問を除いて、全て正解していた。
丸つけをした和真が小室にテキストを返しながら、「やはり君の頭脳は見事ですね」と言った。
「んなことは、ないと思うけど」
「そうですか?」
「や、なんていうか……」
「はい」
「わかんねえことがわかるようになんの、いいな」
和真の返事がなく、不思議に思って顔を覗き見た。ほんの少し目を見開いて、驚いているようだった。
ややあって「そうですね」と和真はほほえんだ。細い目をさらに細めて、口元だけ少しほころばせて、ほほえんだ。
言葉を全部忘れてしまったみたいに、小室は黙り込んだ。
「どうしましたか」
「…………笑った」
「嬉しいときは笑います」
「……あっそ」
日も傾いてきて、その日はそれぞれ帰っていった。
まぶたの裏には、和真の笑顔が焼きついて離れなかった。
受験の日が近づいてきた。たまに和真が差し入れる謎の自家製「頭脳ジュース(脳疲労に効くらしい)」を飲みながら、がむしゃらに走り抜けた。
受験当日、緊張感がないと言えば嘘になるが、妙に気持ちは落ち着いていた。
試験問題も、もちろん難しくはあった。深呼吸をすると、和真が隣でここはこう、と教える声が思い出された。
入試が終わったら手応えを伝える、という約束をしていたから、試験後、図書館に待ち合わせた。
いつも通り和真は円形テーブルの奥で本を読んでいて、近づききる前に顔を上げた。
「よ」
「こんにちは、試験はどうでしたか」
「んー、まあまあ」
「それは、重畳です」
たったそれだけ話して、その日は家に帰った。
***
合否発表の日。
春瀬高校は校舎前の掲示板に受験番号を貼り出す。
試験の日以来、久々に春瀬高校の敷地に足を踏み入れた――これが最後になるかもしれないと思いながら。
試験の日と打って変わって、ひどく緊張した。体全部が心臓になったみたいにバクバク脈打つ。うるさいな、と思った。ポケットに手を突っ込んでコインに触れると、少し気持ちが落ち着いた。
喜んでいる人、泣いている人、抱き合っている人たちをかいくぐって掲示板の前に立つ。無数の数字が並んでいて、めまいがした。
「0326…………」
お互い携帯電話は持っていないから、連絡するときは、小室が公衆電話から和真の自宅の固定電話にかける。
震える手で、数えきれないほどかけた番号を押す。
呼び出し音が、やけに長く感じた。
「はい、葛です」
「……俺」
「ああ小室くん、どうしました」
「話あるんだけど、今から白中前の公園来れるか」
「電話では不可能な話ですか」
「会って言いたい」
和真はしばらく無言だった。
家が厳しいと言っていたから、考えているのだろう。
「……無理そう?」
「いえ、行きます」
白嶺中学校の目の前に、小さくも大きくもない公園がある。夜の公園は肌寒く、桜はまだ蕾しかいない。
手持ち無沙汰に、ぶらんこの鎖をなでる。昔ぶらんこから飛び降りる遊びをしていたことを思い出した。
5分と経たず、和真はやって来た。
少し息切れしている。
向かい合って立ち尽くす。
胸がいっぱいで、なかなか言葉が出てこなかった。
震える唇を開いては閉じ、また開いて、小室はようやく声を出すことができた。
「…………受かってた」
「はい」
「俺、春瀬受かってた」
「はい」
涙が出そうだ。
和真をちゃんと見ることができない。
「……ありがとう」
「はい」
「本当にありがとう」
「君の実力です」
「…………おう」
目頭が熱くなるのを誤魔化すように、空を見上げる。
さらさらと、春の風が吹いた。




