Gravity - 000 - 少年たちが出会う話
その日も、小室憂は両親の怒声に嫌気がさして家を出た。狭い2LDKぽっちのアパートで、父と母は気が狂ったようにいつも言い争いをしている。お前が悪いんだ、あんたのせいで、一体何度耳にした言葉だろうか。そして大抵、食器か何かがに叩きつけられる音に変わる。
小室は、うるさいと叫ぶことさえできず、小さな玄関を飛び出した。
とはいえ、行くところなんてない。
学校にも、もう何ヶ月も行っていない。本当なら、3年生に上がる前の春休みだ。どこへ行っても長い休みに浮かれたやつらばかりで嫌気がさす。そんなときは大抵、家からも学校からも少し離れた裏路地で、何もせずに時間が過ぎるのを待つ。夜になれば父も母も、しようもない稼ぎのために家を出るから、そのときを待つ。
散らかったアルコール缶、シャッターの閉じたクリーニング店、落書きされて何が書いてあるかよく分からないポスター。それらの意味のなさは、ほんの少しだけ小室を安らがせてくれる。
細い道を通り抜けて高架橋の下に、階段で降りて行くことのできる小さなスペースがある。そこが主な小室のたむろ場所だ。何もない、何も聞こえないのがいい。そのはずだった。
その日はいかにもガラの悪い男が2人と、高校生くらいだろうか、制服姿の女がいた。男たちが女をコンクリートの壁に追い詰めて、女は明らかに嫌がっている。こんなところで事に及ばれたら面倒だな、そんな思いだけだった。
「あんたら何してんの」
はじめに女がこちらを向いた。怯えたような、小室が現れて安心したような目をしている。すぐに男もこちらを向き、その隙に女が逃げた。男たちは女を捕まえられなかった。ぎろりと、黄色く濁った目が小室をとらえる。
「ガキが、何の用だ」
「別に、邪魔なんだけど」
「ああ!?」
すぐにでも男たちはこちらに向かってきそうだった。ちょうどいいと思った。小室も苛立っていた。こういう連中なら、多少痛めつけても後の面倒がない。
ゆっくり歩いて階段を降りると、すぐに胸ぐらをつかまれ、思い切り殴られた。ガキ相手に大人気ないなと思う。たら、と鼻血が流れてくる。
「クソガキが、逃げられたじゃねえか!」
「見てたから知ってるよ」
「黙れ!」
こういうやつは動きが大ぶりだから分かりやすい。その辺にあった廃材を拾った男が向かってくるが、振りかぶった瞬間に鳩尾に膝を沈めるとすぐに静かになった。汚い悲鳴が響く。もうひとりも、少したじろいだが、同じようにエモノを振りかぶって向かってくる。流石に同じ手には掛からなかったが、小室が避けるとともに体勢を崩したから、あごに蹴りを入れたら、動かなくなった。大人ふたりがあっけないものだ。
こういう喧嘩は久々にしたから、少し息が上がった。整えて、だらだら流れていた鼻血を学ランのすそで拭う――その様子を、じっと階段の上から見ている奴がいる。サツにでもチクるつもりだろうか。面倒はごめんだから脅してやろうと、小室はそちらを睨みつけた。
明らかに、違う世界の少年が、まっすぐ立っていた。
「なにあんた」
少年は黙って小室を見つめている。
無表情な瞳に少したじろいだ。
「あんたもボコられたいわけ?」
「見事です」
「……は?」
「高い分析力に処理速度、それに劣らない身体能力、大人2人に怖気付かない胆力、判断も素早く的確。全てが見事です」
小室のまわりにはいないタイプのいかれた奴らしい。
「なに、頭イカれてんの」
「でも非効率です」
「は、お説教でもしてえのかよ」
「いえ、咎めるつもりはありません。君の判断と行動は合理的です」
「……は?」
「ただ、その能力をこのような局所的な衝突に費やすのは、効率が悪い」
何が言いたいのか、本気でわからなかった。
説教?説得?警察に行きましょう?
どうやらどれも違うらしい。
「より価値の高い、大きな領域で活用すべきだと思います」
一拍置いて、少年は言った。
「学問を極めませんか? 君なら、優れた研究者になれる」
少年はなんでもない様子で階段を降り、混乱する小室に近づいた。今まで行われていた喧嘩への恐怖はないらしく、何なら少し好奇心さえのぞかせて、まっすぐ小室を見つめる。
そんなふうに見つめられるのは、随分久々だった。いつぶりだろうと考えかけて、止める。思い出したところでろくなものでもない。
「葛和真と申します。学問に興味が出たら、私立白嶺中学校を訪ねてください」
――そうだ、こんないかれた野郎を訪ねていくなんて、冗談じゃない。
「仲間連れて、ボコりに行く」
「虚偽の申告です。推測ですが、君はその状況が合理的ではないことがわかっている」
少年――葛和真はメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書いた。丁寧に千切りとり、小室に差し出す。
ご丁寧に、名乗ったとおりの学校名と名前が書いてある。しばらくそのメモを見つめ、小室は乱暴に奪い取った。
私立白嶺中学校、葛和真。喧嘩、逃げた女、鼻血で汚れた学ラン。学問、研究者、きわめる――見たもの聞いたものが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「……小室、憂」
そして、気づくと、名乗っていた。
名乗る理由なんてないのに。
「……君の名前ですね。ではお待ちしています、小室くん」
そのまま葛和真は、何事もなかったかのように階段に戻っていった。静かな嵐のようだった。
小室はそのまま、高架下の小さな空き地に、しばらく立ち尽くしていた。




