第294話 蛸
握った拳から目線を移し、触手に集中する。
触手は大きく動いていない。しかしこちらの動きに対して、軽微な動きが見えるため、少しでも油断した姿を見せれば、獲物を前にした獣のような速さで攻撃してくるはずだ。
「……」
まだ酸素は十分にある。
ゆっくりと戦況を見極めて、奴の動きを観察しなければ。
「……」
一本の触手が大きめにうねった。
それが隙なのかどうか、俺に把握する術はないが、ここで挑まなければ、この後も勝機を掴むことは到底叶わないだろう。であれば、ここで挑む、それ以外に選択肢は存在していない。
【シンクロ】で借りた亀之助の水を生み出す力で、生身の人間では到底出すことができない推進力を以て、触手の根元へと向かう。そもそも根元が視界にあるわけではないため、見えないそこが根元なのかどうかすらも分からないわけだが、接近しないことには何も始まらない。
「……」
当然のように触手は迎撃に動く。
海中の触手は、地上における龍の如き脅威だ。一回でも絡め捕られてしまえば、抜け出すことは不可能に等しく、圧殺されずとも、酸素が足りずに死に至る……海中というのは人にとってアウェー会場でしかないんだからな。
「……」
触手の迎撃は、水に大きなエネルギーが加わるため、接近するのにより多くのエネルギーを要することになった。つまり想定以上の、体力の消耗が余儀なくされたということだ。
右側から触手が迫って来た。
かなりの速度が出ている。押し出された海水が、流れとなって俺のことを押し出し、左側へと若干流されてしまう。何とか前へと進むことはできるが、触手を避けるのに十分な速度は出せない。
「――ッ!」
思わず唇を噛みしめてしまい、流れ出た血が海中を漂う。
しかし触手によって海水が押し出されることによって、流れ出た血液は直ぐに霧散した。代わりに大量に吐き出された空気が、泡となって海面へと昇っていく。
背中を触手によって殴りつけられ、強制的に貴重な空気を押し出されてしまった。これによって海中に居られる時間が大幅に削られてしまい、触手の動きを見極めるなんて言っている余裕はなくなった。早く決着をつける。それだけが俺に残された勝ち筋だ。
再び【シンクロ】による移動を再開し、最短距離で触手の根元があると思われる場所へと向かう。当然、触手による迎撃が待っているが、そんなことを気にしていられる時間は、遥か前に通り過ぎている。
「……っ」
そろそろ体内の酸素も少なくなっている。
これ以上時間を掛ければ、身体機能にも影響を及ぼしてくる頃だろう。ならばここで勝負を決める。そうしなければ、あの女相手ではなくクラーケン相手に敗戦するということになる。そんなことは到底受け入れられない。
「……」
全力で加速し、背中から追いかけて来る触手を撒きに掛かる。現状、触手と同程度の速度を出せているため、追いつかれてはいないが、撒くこともできていない。全力でこの状況なら、少しでも出力が遅くなった時点で、追いつかれてしまう。
ここで【六道】を使って、攻撃に転じても良いとは思うが、その場合ゴン太由来の身体能力が使えなくなってしまい、直ぐに酸欠間違いなしだ。だが体力の残り具合的に、触手の根元に辿り着くよりも先に、俺の体力が尽きる方が早い。
「……」
【六道】を使おうしたが、途中で踏み止まれた。
今まで水を噴出することで、俺は推進力を得ていたが、それは一般的に人が泳ぐ方法とは違っている。人が泳ぐときは、腕と足を使って水を掻く。つまり俺は今この時まで、全力で移動しようとしていたわけではなかった。まあ当然のことだが、手足を動かす分、それだけの体力を消耗する。
「――」
全力で水中を掻きまわし、触手の根元を目指す。
無理したおかげもあって、触手の迎撃を撒き、無事に触手の根元へと到着することができた。そこにはクラーケンと言われて想像するような、巨大な蛸が居る。
「……」
当然、巨大な蛸足たちが身体を守るようにしながら、二本の触手が俺のことを狙っている。その姿は目を塞いでいるように見えるが、触手の先端は俺のことを確実に狙っていた。気配を殺して、逃げ切るってのは現実的ではないだろうな。
「……」
そもそもタイムリミットは刻一刻と近付いている。こんなところで考えている暇すらも、俺には残されていない。できるだけ早く決着をつけて、海面に上がらなければ、溺死なんて最悪の死に方をしてしまう。
「……」
俺は再び加速し、クラーケンの元へと急いだ。
蛸は美味い。
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