第185話 蟻
一歩でも動いたら、頭を喰われるかもしれない。そんな恐怖が常時存在している暗闇において、俺たちは果敢に一歩を踏み出した。
幸い、アリからの攻撃が来ることはなかったが、敵の位置が分かっていないという状況は、一切変わっていない。
「探ろう」
江梨子の僅かな風が肌を撫でる。
それは空間全てを満たすように広がり、直ぐにアリの数と居場所を言い当てるだろう。そして動き続けていた風が停止する。
「残っているアリの数は六。前方に三、斜め右に一、左数メートル先に一、そして上部に一だ」
江梨子は淡々とアリの居場所を口にしたが、最後だけは聞き捨てならない場所だった。少し遅れて風が頬を撫でる。反射的に飛び退いてみたが、その行動が功を奏したようで、俺たちは難を逃れることができたようだ。
「江梨子、もう少し声に抑揚を持たせることはできなかったのか?」
「悟が避けると信じていたからな」
巨体が壁に激突するような音が耳に入って来た。
きっと江梨子の真横に降りたアリが、風の力によって吹き飛ばされたのだろう。遅れて聞こえて来た擦れるような音は、アリの巨体が激突した場所から、下へと落下する音だと思われる。
仕留める絶好のチャンスだろう。音のお陰で、相手の居場所ははっきりとしており、多少のダメージは負っているはずだ。俺は走りながら、【シンクロ】を使用した。
「【シンクロ】」
借り受けたのは、悟空の“赫猛”の力だ。
全身から赤いオーラが滾り、身体能力はかなり上昇しているだろう。
何も認識することができない暗闇へと、思いっきり拳を振り抜く。壁を殴りつけた時のような、自分の拳だけが痛くなるような感覚に陥ったが、気にせず拳を振り抜いたことで、砕けるような音ともに、拳は解放感を得た。
「はぁはぁ、ギリギリやれたか」
残りのアリは、五体だけだろう。時間が経てば、敵の援軍がやってくるということは、容易に想像がつくため、できるだけ早く戦いを終わらせる必要がある。
「江梨子、残りの個体は――」
「何か言ったか?」
江梨子が居たであろう場所へと、声を掛けてみたが、返って来たのは圧倒的風圧とあっけらんとした声だ。終わったのだろう。
俺が全力を尽くしてようやく倒すことができたアリを、江梨子は一瞬で五体も倒している。やはり俺と江梨子とでは、圧倒的な力の差が存在している。
「ほう、悟も倒せたのか」
「ああ、なんとかだけどな」
「いや、十分だろう。このアリは、【横須賀ダンジョン・二十六階層】に生息している地獄女王蟻の眷族である地獄蟻のはずだ。これを倒せる力があれば、大抵の魔物には勝てるだろう」
「そうなのか」
見た目が分からない以上、地獄を冠する仰々しい名前がどれほど適しているのかは分からないが、二十六階層の魔物だという所で、ある程度の担保はあるだろう。
しかし女王蟻が眷族を生み出しているとなると、この巣穴は早めに消しておかなければ、際限なく成長し続けるのではないか?
「悟が想像したように、この巣穴は底知らずに大きくなっていく。だから麗華の救出とか関係なく、討伐するべき場所だ」
江梨子の声はとても真剣だ。
ダンジョンに対する知識豊かな江梨子が、ここまで真剣になるんだ、本当に強大な敵となり得る魔物なのだろう。
「では進むとしようか。次は従魔たちにも戦ってもらうぞ。流石の私でも、ここを単独で制圧するのは体力が持たない」
「分かった。たぬ吉たちも大丈夫だよな?」
「――」
全員の元気な返事が聞こえて来る。
それが巣穴を反響して、遥か遠くにいた個体の下へと届いたのか、微かなカサカサ音と共に、足元が揺れているように思えた。
「【――】」
即座に詠唱を始める江梨子。
詳しい個体数は分からないが、先刻の襲撃の際は揺れていなかったことを鑑みるに、六体を優に超えているということだけは確実だろう。
隣からは従魔たちの唸り声が聞こえて来るが、攻撃の許可を出すかは悩んでしまう。
地獄蟻の外骨格は、“赫猛”によって強化された拳で、ようやく砕くことができる硬度だ。元の力である悟空はまだしも、他の従魔の攻撃でダメージを与えることはできるのか? ここは江梨子に任せて、抜けた奴だけこちらで対処するべきなのでは?
そんな思考が頭の中をグルグルと廻っていた。
「“――”」
そんなことを考えている内に、江梨子は詠唱を終えて攻撃を放っていた。やってくる風は、これまで通り魔物たちを蹂躙していたが、数体は抜けて来ている。
「たぬ吉!」
咄嗟にたぬ吉を頼った。
“湧沸”。威力に全振りしたそれは、迫り来る地獄蟻に対して、一直線に進んでいた。聞こえて来た砕けるような音に、若干の安心感を得つつも、警戒心を解くことはない。なぜなら前回とは違って、抜けて来たのは一体だけじゃないのだから
「タマ!」
「ニャン!」
巨大なアリの巣穴に、タマの三味線の音が響き渡った。
江梨子が暗闇でありながら、アリの種を言い当てたのは、戦った際の手応えが根拠になっているため、それが合っているかどうかは誰にも分かりません。
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