23.男の持っていたもの
医者の家での朝食を終え、五十嵐の体拭きに取りかかった。ホットタオルで体を拭く。それだけのことだが
かなりの重労働であることをすぐに悟った。
まず顔を拭き、耳、首と拭いていき、胸や腹の上半身を拭き、点滴に気を付けながら腕を拭き、枕を腰当として使いながら体を半回転させて背中を拭く。五十嵐は比較的大きな体躯であることから、体を動かすだけでかなりの力がいる。
これが毎日続くのは、確かにかなりの負担である。医者が喜んでオレを泊め、この仕事をオレに押し付けた理由が分かった。朝の9時過ぎには村を回ろうと思っていたが、すで9時半を回っている。
急がなければ。そう思った時だった。ギーーーーーー―というオルダの鳴き声が急速に近づいてきた。オルダの鳴き声が最も大きくなったところで、鳴き声の動きが止まった。オルダが近くに留まっている?
窓の外を見ると、診療所の前にある小さな祠のあたりに若い男が両耳を抑えてうずくまっていた。
あんな場所にいられたら仕事にならない。オレは慌てて部屋を出て、男の元へと向かった。
外に出ると、男は変わらずうずくまっていた。
オルダの鳴き声が強くなり辛くなってきた。オレは耳を押さえながら男に近づき、話しかけた。
「オルダ持っているなら早く出してくれないか。耳が痛いんだ」
男は振り返った。
「オルダ?」
男は一度考えたような仕草をした後、背負っていたリュックの中からノートをオレに差し出した。
意味が分からない。
「は? オルダだよ。オルダ。早く、もう耐えられない」
鳴き声の耐えられなさに、思わず「石を早く出して」と怒ったように言ってしまった。
男は少し怯えたように、戸惑ったように答えた。
「石なんて持ってないです。俺の知ってるオルダは、このノートです」
違和感しかなかったが、オレは自分のオルダをノートに付けた。すると、オルダの鳴き声が止んだ。
「どういうことだ?」
ノートにオルダが住んでいる? そんなことあるのか? こいつはオルダハンターではないのか?
そんなことを考えていると、男がまだ耳を押さえていることに気づいた。そうだ、こいつのオルダは五十嵐の方のオルダに共鳴しているのか。
オレは「付いてこい」と男の腕を引き、五十嵐の部屋へと連れて行った。部屋に入って、五十嵐のオルダを取り出し、「これにノートを付けて」と渡した。男はすぐに従った。男のホッとしたような反応から、どうやら男のオルダの鳴き声も止んだようだ。
「そのノート、どうなってるんだ?」
オレは男に訊いた。ノートにオルダが住んでいるなんて聞いたことが無い。
「あんた、そのノートとどうやって契約したんだ?」
すると、男はポカンとした。
「契約?」
「契約したんだろう?」
「契約って?」
本当に契約について分かっていないようだ。
「オルダは、契約して初めてオルダの鳴き声が聞こえるようになるんだよ」
「これ、オルダっていう虫の鳴き声だったんですか?」
「それすら知らないのか?」
男はなぜか「すみません」と謝ってきた。
こいつ、オルダハンターではないのか。ならば、なぜオルダが住んでいるノートを持っているんだ?
「ノートはあんたのものじゃないのか?」
男は小さく頷いた。
「どういう経緯で手に入れたんだ?」
「いや…。俺、リサイクルショップ経営してて、遺品整理的な感じで行った先で回収した古本の中に偶然紛れ込んでいたというか」
「遺品整理?」
オルダハンターで最近亡くなった人は聞いたことが無いが…と思った時に、頭に岡田教授がよぎった。
「そのノート見せてくれないか?」
男は「はい」とノートを渡してきた。
ノートを開くと、そこにはノートの元々の持ち主が描いたと思われるオルダと石の絵が描かれ、その特徴と産地の説明が書かれていた。さらに捲っていくと、家系図のようなページが現れた。そこには『鬼虎』『千代』『子』が家系図のような配置で書かれている。
「鬼虎…」
オレは思わず呟いた。子を丸で囲み、『オルダ?』と書いている。また、『根音村』という文字もある。
「このページを見て、この村に来ようと思ったと?」
「はい。そのノート気持ち悪くて、どこにしまっても、気づけば俺のそばに何故かあって。耳鳴りがするようになったタイミングと、そのノートを手にした時期が同じだったんで、原因はきっとこの気持ち悪いノートだろうと思って」
おそらく男が言っていることは本当なのだろう。
そしてこれは岡田教授のノートだ。間違いない。朱里さんは警察が処分した岡田教授の遺品の中に和綴じのノートがなかったかとオーナーが確認していたと言っていた。このノートは和綴じのオートである。
「聞いていいか?」
「はい」
「その遺品整理に行った先って、稲塾大学の岡田教授の家だったりするか?
男は驚いた顔でオレを見た。
その反応でオレは確信した。
「やはりそうなのか…。ということは、これがあのノートか…」
男は怪訝そうにオレを見た。
「亡くなった人のことご存じなんですか?」
「直接は知らないんだが、俺もつい最近教授のことを知って、このノートのことも耳にしてた。……完全に処分されたわけではなかったんだな」
「俺はいつ契約したんですか?」
男は真剣な顔で訊いてきた。
オレは思わず「知らねぇよ」と答えた。
しかし、男は全く引き下がらず、
「契約はどうやってするんすか」
と詰め寄ってきた。
「自分の血をオルダに吸わせるんだ」
オレは素直に答えた。オルダと契約を結ぶときは、指に針を刺し、血が出てきたら、それをオルダに吸わせる。オルダによっては血を吸わないこともある。血を吸われない限り、契約は成立しない。オレは一度で成立したが、中にはなかなか契約が結べず、何度もチャレンジする人もいた。
「どうしたらこのノートと縁を切れますか?」
男はグイと更に詰め寄ってきた。
オレはその勢いに押され、少しばかり後ずさった。オルダの契約は一生ものだと聞いている。契約が切れた人にはあったことがない。だから、そう答えるしかなかった。
「知らねぇよ。一度契約したら一生だろ」
「まじっすか。俺は一生このノートを持ち歩かなければならないということっすか」
「だと思うけど?」
「そんな…」
男は落胆したようだ。
オレは男を安心させようと慌てて言った。
「ただ、さっき見た通り、オルダ同士に挨拶させれば音は止むから、何とかなると思うけどな」
「挨拶?」
「オルダは、知らないオルダが自分の領域に入ると、警戒心からか鳴き出すんだよ。それがお前が聞こえていたギーーーーーーーーーーーーっていう声だ」
「耳鳴りじゃなかったんすか。じゃあ、ギーーーーーーーーーという声が聞こえるということは、そのノートのほかにオルダがいるということっすか?」
「そういうことになる」
「ってことは、俺の店にオルダがいるということっすか?」
男はビックリするようなことを言った。言われてみれば、リサイクルショップには持ち主が変わるなどして要らなくなったヒスイが持ち込まれることもあるのだろう。その中にオルダが住んでいるものが紛れていても不思議はない。
「店でギーーーーーーー―という声を聴いてたのか?」
「自宅の1階が店になってて、毎日毎日24時間ずーっと聞こえてたんすよ。店の中の方が強く聞こえていた気がします」
「なら、あんたの店の商品のどこかにオルダがいたんだろうな」
男は宙を見て、何かを思い出そうとしている様子だった。
オレは、男に五十嵐の石を見せ、言った。
「基本的には、オルダはヒスイに住む」
男は、おそらく自分の店の商品を思い浮かべているのだろう。ずっと宙を見ている。
オレは再びノートを開いた。このノートのどこにオルダがいるのだろう。1ページごとに擦っていくことにした。そして、何ページかめくったところで、オルダが現れた。それは鬼虎のページだった。
「こいつか」
と思わず呟いたら、男がノートを覗きこんできた。
本当にノートに住んでいる。これを岡田教授から聞いて、オーナーは確認したかったのだろう。
「ノートにオルダがいるなんて信じられん」
興味深そうにノートを覗いている男を見て妙案が浮かんだ。男がしゃがんでいた先に一台の軽ワゴンが止まっていた気がする。
「あんた、外に停まってる軽ワゴンで来たのか?」
男は「はい」と答えた。
やはりそうだ。これは使えると思った。
「今日、このあと暇か?」
男は不安そうにオレを見ながら答えた。
「暇というか、原因が分かったので、店に帰ろうかと。片道4時間ぶっ通しで走ってきたので、少しは休みたいですが」
片道4時間は大変だったろう。でも、まだ若い。大丈夫だろう。
「オルダのこと、もっと詳しく知りたいと思わないか? 例えば、オルダがどうやって生まれているのかとか。もしかしたら、オルダと契約を切る方法も分かるかもしれない」
男は考える仕草をした。嫌ならすぐに断るはずだ。これは脈があると思った。
「今日、オレに付き合わない?」
すると男は、オレの期待に応えてくれた。
「いいですよ」
タクシー代わりが見つかった。




