Act2 聖域のノイズ
バタン、と玄関の扉が閉まり、階段を下りる薫と航聖のヒールの音が遠ざかっていく。
安アパートの静寂が戻ったはずの部屋で、龍輝は吐き捨てるように毒づいた。
「……言葉が足りないだと⁈……クソがっ!!」
テーブルに置かれた『語彙辞典』を睨みつける。自分を「無知な道具」として扱うような彼女の視線が、古傷をなぞるようで忌々しい。龍輝は苛立ちをぶつけるように、耳に押し込まれたシリコンの塊__航聖が「イヤーモールド」と呼んでいた特注のイヤホンを指で引き抜こうとした。
その瞬間、外したはずの耳の奥で、電子音と共に冷ややかな声が鼓膜を叩いた。
『よせ、龍輝。無理に外せば、設定したハウリング防止機能が作動して耳鳴りにのたうち回ることになるぞ』
「……っ、お前。監視してんのかよ」
『仕事中だと言ったはずだ。お前が左手首に巻いているウォッチの心拍数が、さっきから異常に高い。ヒメが帰って、そんなに寂しいのか?』
「殺すぞ」
龍輝は手首の黒いデバイスを睨んだ。脈拍、発汗、周辺の温度。それらすべてがデータとして、どこか安全な場所にいる航聖のモニターに吸い上げられている。
『無理な相談だな。そのイヤーモールドは周囲の環境音を完全にカットし、僕の暗号化サーバーを経由して直接お前の聴覚に情報を流し込んでいる。たとえお前がどんなに街の雑踏に紛れようが、僕が指先一つ叩くだけで、お前の意識を俺の声で支配できるんだ」
攻勢の声は、隣にいるよりも鮮明で、逃げ場のないほど近かった。龍輝は辞典を掴み、布団に身体を投げ出す。
「……プライバシーも何もありゃしねえ」
『加納家にいた頃よりはマシなもんだろう。……いいからその本を開け。語彙が増えれば、お前のその無駄な心拍数の上昇を「苛立ち」以外の言葉で定義できるようになるかもしれないぞ』
インカムの向こうで、キーボードを叩く乾いた音が規則正しく響いている。それは龍輝にとって、忌々しくも、この孤独な逃亡生活の中で、唯一自分を「現実」に鍔ぎ止める、細い鎖のような音だった。




