Act1 沈黙の限界
雨上がりの湿った風が、木造アパートの薄暗い廊下を通り抜ける。築数十年の壁はひび割れ、逃亡生活を続ける九条 龍輝にとっては、この安っぽさが唯一の平穏だった。
「……何の用だ?仕事の依頼なら、インカム越しですむはずだろ?」
龍輝は玄関の鍵を開けたまま、背後の気配に声をかけた。そこには、およそこのボロアパートには似つかわしくない、凛とした制服姿の少女が立っていた。瑞穂学園の「ヒメ」であり、龍輝の雇い主、姫神 薫。
その傍らには、無機質な視線を向ける玉木 航聖が控えている。彼は手慣れた手つきでノートPCを開き、周囲の監視カメラや電波状況を瞬時に掌握していた。
「顔を見て話すべきこともあるわ。それにね、貴方のその『言葉の足りなさ』が、これからの仕事に支障が出るもの」
薫は龍輝の殺風景な部屋を見渡し、呆れたようにため息を吐く。彼女が差し出したのは、ずっしりと重みのある一冊の『語彙辞典』だった。
「……なんだよ、これ?この俺に勉強しろっていうのか?」
「そうよ。貴方は加納の家を捨てて、腕一本で生きていくと決めたのよね?……けれど、暴力だけで解決できる段階はもう終わるわ。これからは『交渉』や『攪乱』が必要になるのよ」
薫は辞典を龍輝の胸元に押し付けた。
「中学校にも満足に行かせて貰えなかった貴方には、世界を定義する言葉が圧倒的に足りないわ。自分が何を考え、相手をどう動かしたいのか。それを正しく使える言葉を武器にするのよ」
龍輝は受け取った本の重みに、一瞬だけ毒気を抜かれたような顔をした。横でキーボードを叩いていた航聖が、画面から目を離さずに淡々と言葉を添える。
「……龍輝、そのインカムは飾りじゃない。僕が後方から指示を出しても、お前がその意味を正確に理解できなきゃ死ぬことになるぞ。……ヒメの慈悲だ。その本を枕にするのはやめておけよ」
龍輝の言葉には、かつて加納家に使い捨てられかけた者同士の、冷ややかなリアリズムが籠もっていた。
「……ちっ、分かってるよ」
龍輝は乱暴に辞典を放り投げず、小さな古びたテーブルの上に置いた。
表紙に書かれた文字を指でなぞる。加納という呪縛から逃げ出し、一人で断っているつもりだったが、結局はこうして別の絆に生かされている。
「次の仕事までに、最初の百ページは叩き込んでおくこと。いいわね?」
薫の命令に、龍輝は短く「ああ」とだけ答えた。窓の外では、夕闇が静かに街を飲み込もうとしていた。




