Act1 廊下の隅、阿修羅の影
夜の埠頭。潮風が龍輝の頬を刺す。
リムジンの窓が僅かに下がり、薫の白い指先から封筒が差し出される。
「はい、今日の報酬」
龍輝はその手紙を奪い取るように受け取ると、汚れた指が紙を汚さないように、慎重に封を切った。小学校で習った文字を、暗い街灯の下で一つずつ辿る。
『龍輝、元気でやっていますか?私のことは心配しないで』
たったこれだけ。けれども龍輝はこの文字の羅列を、世界で最も尊い経典のように見つめた。
彼の中に残る母親の記憶。それは温かい抱擁でも、優しい子守歌でもない。
冷たくて硬い、廊下の板の感触だ。
加納家の本家。巨大な「阿修羅像」が睨みをきかせる大広間。
その華やかな喧騒から切り離された、廊下の最後尾、影が溜まる隅。
そこが、龍輝と使用人である母親に許された唯一の居場所だった。
母親はいつも、床に額を擦り付けるようにして平伏していた。龍輝は加納の血を引きながら、決して中に入ることを許されない「穢れ」として、ただひたすらに低姿勢を貫く背中。
同じく龍輝は、その母親の隣で正座し、磨き上げられた床の木目だけを見つめていた。
「……こら、龍輝、決して顔を上げちゃダメ。……私たちは石になるのよ」
母親の細い指が、龍輝の手を痛いほど握りしめていた。彼女は言葉で愛を語る余裕などなかった。ただ、誰よりも低く、誰よりも卑屈に振る舞うことで、息子が「処分」されるのを防いでいた。
だからこそ。
今、手の中にあるこの「手紙」は、龍輝にとって奇跡だった。
あの長い廊下で、石のように黙り込み、床に額を押し当てていた母親が、自分の為に「言葉」を紡いでいる。
「元気でやっていますか?」という短い問いかけ。
それは、あの冷たい廊下で、彼女が必死に飲み込み続けていた、血を吐くような愛情の結晶だと、龍輝は妄信していた。
「……母さん」
龍輝は手紙をぎゅっと握り締める。
薫は、車内からその様子を無表情に見つめていた。龍輝がこの手紙に依存すればするほど、彼は「阿修羅の廊下」から自分を引き上げてくれた薫に、魂を売り渡していく。
(……九条 龍輝。……次はもっと大きな仕事を期待しているわね)
「……次も、お願いするわ」
「……分かっている。何でもやる」
龍輝の瞳に宿るのは、理性でも知性でもない。
「もう二度と、母さんに床を舐めさせない」という、呪いにも似た一途な殺意だった。
その様子を、数キロ先のモニター越しに航聖が「演算」していることは、まだ龍輝は気づいてはいない。
今、この埠頭にあるのは、薫という飼い主と、手紙という鎖で繋がれた一匹の「猟犬」の姿だけだった。




