第八幕 彼女の【正義】
ーーある冷たい雪の降る夜、月光に照らされた、朽ちかけた小さな家。ゆらゆらと揺れる灯りとゆりかご、そのゆらめきはまるで眠る赤子の命の火のように。
「……ああ、どうか、この子を助けて……」
母親の切なる願いは、ある妖精に届き、その足を止めさせた。
雪よけの傘を畳んで、美しき【湖の姫君】は突然部屋の中に現れる。
「……貴方の祈りは届きました。明日の朝、彼女は目を覚ますでしょう」
美しい妖精の言葉を聞き、母親は静かに涙を落とす。
妖精は優しく苦しそうな赤子に手をかざす。途端に赤子は安らかな寝息を立て始めた。
「……これでもう大丈夫。だけど、貴方は……」
妖精の言葉に母親は静かに頷き、寂しそうに笑った。
「流石は、お見通しなのですね。覚悟はしていたことだから大丈夫ですし、祖母はこの子を産むことを受け入れてくれた。この子が生きているなら私はそれで構いません。短い時間でしょうけれど、祖母の元でこの子と幸せな時間を過ごします」
「……私も誕生に立ち会った身です。この子のことは、気にかけておきましょう……この子の名前は?」
「……私の一番好きな、春を告げる花。……ヴァイオレット。と名付けたいんですけどね……この子の父親はこの区の人ではないので戸籍ではどうなるかわかりません。私はずっとヴァイオレットって呼んでますが」
「ではいつか私は本当の名前としてその名をこの子に告げましょう。ヴァイオレットに祝福がありますように」
ヴァイオレットの母親は、元々体が強くはなかった。
彼女が愛しい我が子と過ごせた月日はわずか2年。
そして母親の予想通り、その子には別の名前が与えられた。
祖母の元で成長した少女は、やがて祖母が亡くなると遠い区の遠い親戚に引き取られていった。
ーーもはや、彼女の本当の母親も、本当の名前も、【湖の姫君】のみぞ知る。
今の彼女は、本当の名前も、母親も、父親の顔も知らないままに生きている。
そしてもちろん、あの雪の夜に彼女を助けたのが誰なのかも。
**
「う....」
「気がついた?シホ」
「....マリィ」
薄暗い部屋。冷たい床の上で香具津紫穂は意識を取り戻す。
そうだ、電脳皇帝であるアーサーから独自に言い渡された紡たちとは違う特別任務。
「紫穂、君には特別任務についてもらいたい。アルビオン・ヤードと協力して商業施設を警備してほしいんだ。アクト・フィグメントの襲撃予告が出ていてね」
「アルビオン・ヤード?大変な事態ですが……その商業施設は【人魚の涙】に関係があるんですか?」
アーサーは少し考え込む。
「どうなんだろうね....アクト・フィグメントには謎が多い。派手な事件が多いから主要メンバーの顔は知られているけど、能力やアルカナの有無はわかっていないんだ。バックに大物がいるとは推測されているけれど」
「……わかりました。私にできることであれば」
紫穂は部屋に戻り、刀を腰にさす。
「……やはりrOMaNのいく先に平穏などないか。私はただ、任務を果たそう」
**
ホテルラウンズ・キャメロットを後にした紫穂を見届けたアーサーは部屋に視線を戻すと、いつの間にか立っていたアスレイを見つめた。
「……これでいいんだろ、アスレイ」
「……ああ。実際今回の商業施設襲撃は嫌な予感がするからね。それに、今のあの子にはきっと、妖精は見えない。紫の花宿鳥がずっと彼女を守るように一羽、肩に乗ってるけど……気づいてもないよ。今回、オレはアルビオン区の妖精の存在を目で見てもらうために花宿鳥をたくさん連れてきてるけど……ひとりだけ見えないんじゃ傷になるだろうからね。そもそも今のあの子はきっと【妖精】や目に見えないものを嫌っているだろう」
アスレイは静かに長い睫毛を伏せる。
「……運命とは皮肉なもんだ。君は誰よりも【妖精】に愛されているのに、君は何も知らずに【妖精】を嫌い、目に見えない者たちを狩る立場にいる。【正義】のアルカナ保持者、香宮津紫穂。真実を知った時、君はその刃を誰に向けるのかな」
**
アルビオン区は雨が多い。
霧雨の中辿り着いた商業施設は、表向きいつもと変わらないように見えた。
アルビオン・ヤードの職員は皆私服で巡回を行なっているが、そこまでピリピリとした雰囲気は感じとれず、紫穂に与えられた指示も商業施設に一日巡回を兼ねて滞在してほしいというものだった。
「とは言われてもな……」
紫穂はアルビオン区出身ではあるが、高天区にいた方がずっと長い。
さらにその年数のほとんどを修行に費やしていたため、娯楽というものがよくわからないのだ。私服のほとんどは緋鶴と一緒に買ったもの。
「……緋鶴も来れればよかったんだが。とりあえず書店にでも行くか……」
フロアマップを確認して6階にある書店へ向かう。現在、電子書籍が主流ではあるが、紙の本も普通に流通している。rOMaNに入るまでデバイスを持ったことのない紫穂には、紙の本の方が身近だった。
「恋愛小説は……この辺りか」
そういえば新刊は今日発売だったかなどと本を探していると、指が誰かとぶつかった。
「すまない、本を探していて……」
慌てて指を引っ込めて、ぶつかった指の主を見た紫穂は言葉を失った。
「……マリィ?」
「えっ……紫穂……なの?」
そこにいたのは、紫穂の唯一の親友、マリィだったのだから。
**
「それにしても久しぶりね。こんなところで会うなんて」
「ああ、驚いた。引っ越してから連絡が取れなかったから……アルビオン区に帰っていたのか」
ふたりはゆっくり話をしようと商業施設の一階にあるカフェに来ていた。
雨が強さを増して、窓を叩く。
カフェの中は暖かく、マリィは注文したアールグレイを一口飲んだ。紫穂もせっかくアルビオン区に来たので同じものを頼む。ふわりと香るベルガモットは、同じ柑橘系である蜜柑の樹の記憶を呼び覚ました。
「もう少ししたらアフタヌーンティーのケーキスタンドが運ばれてくるはず。ひとりではなかなか注文しづらかったから、紫穂と一緒に食べられて嬉しいわ」
「ああ。マリィと庭の蜜柑をほうじ茶と共にこたつで食べた日のことはよく覚えている」
「蜜柑、美味しかった。甘酸っぱくて。こたつから出るのにとても苦労したの」
運ばれてきた三段ケーキスタンド。下の段から軽食のサンドウィッチ、お茶菓子のチョコチップスコーン、メインのケーキのレモンタルトとバニラアイス。
「マリィ、食べる順番はあるのか?」
「そうね。一般的には下の段から。でも、この場合はまずアイスクリームから頂きましょう」
「溶けてしまってはもったいないからな」
スプーンですくってひとくち。甘く冷たいバニラ味はどこかノスタルジックで、紫穂はまた昔のことを思い出す。
「美味しい。私がまだ小さい頃、夏は祖母がよくバニラアイスを作ってくれていたんだ。庭で採れた摘みたてのミントが乗っていた。それから、」
続いてチョコチップスコーンをかじる。甘くてさくさくと香ばしい。
「スコーンもやっぱり、祖母がよく焼いてくれていた。もう10年以上も前のことなのに、昨日墓参りをしたからか、よく思い出すよ」
マリィは同じようにチョコチップスコーンをかじり、長いまつ毛を伏せた。
「紫穂はおばあさまのことが好きだった?」
「ああ。私の本当の母親は物心ついた頃にはすでに亡くなっていて。高天区の遠い親戚に預けられるまでは、祖母の家で育ったんだ。そうだ、マリィ。笑わないで聞いてくれ」
紫穂は鞄の中から黄ばんでぼろぼろになった手紙を取り出した。
「祖母から、貴方がいつかアルビオン区に戻ってきた時、庭園の奥の箪笥の引き出しの中を開いてね、と遺言されていたから、昨日取りに行ったらこの手紙が入っていた。ただ、何故かひとりで読む勇気がなくて......マリィ、見守っていてくれないか?」
「......ええ」
紫穂の指が手紙の封蝋を開いた瞬間ーー
「!」
爆発音と共に世界は暗転した。
**
その少しだけ、前のこと。
「わたし....は....」
ひとりの少女が眼前の恐怖に震えていた。
どうして。どうして。
「......貴方、耐性がある。【花灰】触れたら、女、死ぬのに。興味深い。経過観察。生かす」
少女に恐怖を与え、親友を葬り去った白い女は目深にフードを被り直して去っていく。独り残された少女は、抱き抱えたままの親友の頬に触れた。
氷のように冷たかった。閉ざされた瞳がもう開くことはない。
だが、親友を喪ったことよりも彼女を恐怖に陥れたのは--
「なに、これ.......」
手のひらに現れた小さな結晶と--
「わたし......なの?」
商業施設のガラスに映り込んだ自らの姿。
「真っ白な髪に....柘榴石色の瞳.....まるで別人じゃない......」
絶望する少女の耳に、足音が響く。
「逃げなきゃ......」
親友を置いていきたくないけれど、姿が変わってしまった今では学生証も役に立たない。最悪、この商業施設を襲撃したアクト・フィグメントという組織の仲間だと思われる可能性もある。
「ごめんなさい。わたしは......生きたい」
少女は親友に踵を返し、振り返らずにその場を立ち去った。
「......うん、それが賢明な判断だよ。大丈夫。【妖精】は一部始終を見届けた。君に危害が加わらないよう保護しよう」
アスレイは残された少女の親友をそっと抱き抱える。
「オレは男だから、花灰の影響はない。キミの親友も守るから、安心しておやすみ」
花灰を浴びた少女の親友の体は真紅の薔薇の花びらになって、散った。
「......なるほど、女性にだけ影響を持つ【花灰】か。ソルベをこっちに来させなくてよかったと思ったよ.....もう少し詳しい話を聞いてもいいかな?」
物陰から現れたのはダークブラウンの髪を持つ青年。どうやら彼もまた、一部始終を見ていたらしい。
「......やるじゃないですか。妖精竜のオレをつけるなんて」
「え?それはないよ。俺が今ここにいるのは偶然。アルビオン区で本場のアフタヌーンティーだってわくわくしながら食べてたら急に停電が起こってさ。状況がよくわからないけど怪我した人たちがいたから治しながらフロアを回ってたんだ。追跡術ならシトラスの方がずっと上。今も動いてもらってるよ。君は大丈夫?怪我してない?」
アスレイは調子狂うなぁと頭を掻いて、
「大丈夫ですよ。パフェさん。いや--って言った方がいい?」
その名前にパフェは一瞬だけ表情を固くしたが、
「わかっちゃうんだ。妖精パワー的なものなのかな?アスレイくん」
へらりと笑って手を差し出す。
「え」
「ごめんごめん。本当はシトラスや電脳皇帝の遊戯参加者からある程度情報は集めてるんだ。俺はパフェ。【童話】のリーダーです。ただ、傷は癒せるけど俺には戦闘能力がほとんどなくて....アスレイくん.....手を組んでくれないかな」
「......断る理由がそもそもないし、いいよ」
「ありがとう。【童話】の情報網はわりとすごいから必要ならお礼としてなんらかの情報を....」
「......もらえるならもらうけどさ。これは対価が欲しいっていうよりオレの意思」
アスレイはそっとその手を取って、聞こえないように呟いた。
「......今度は死なせないよ。あんたの事」
**
そして現在。
「......マリィ.....怪我は、ないか?」
「わたしは大丈夫よ。紫穂が庇ってくれたから......だけど」
なにも見えない真っ暗な部屋の中。生温かい雫がマリィの上に落ちる。何度も、何度も。
「紫穂、あなた、怪我を」
「.....このぐらい、【魔狩】ではしょっちゅうだ。気にしないでくれ。ただ、これからどうするべきかだな....明かりがなければ【栞】の操作もできない」
「.....照らして」
マリィが呟くと淡い光の球が現れ、紫穂を照らし出す。
「助かった。確かデバイスはここに」
紫穂はデバイスを操作し、外部連絡を試みる。だが、繋がらない。
「……ジャミングね。……紫穂、落ち着いて聞いて。この商業施設の地下に……【ダイアモンド】が……人間側の【区核石】がある。あなたの傷が心配だけど……とりあえずそこを目指しましょう」
マリィの言葉で紫穂は思い出す。
「そうか、だからこの商業施設の名は……ディアマンテ・スクエアなのか」
「ええ。エレベーターは使えないから、非常用階段から」
ふたりはカフェの近くの非常用階段を見つけると地下へと進んだ。
**
同じ頃。
「パフェ。ディアマンテ・スクエアの地下に着いた。今のところ【区核石】は無事だが、状況は良くない。扉付近のアクト・フィグメントの雑魚は全員倒したが、幹部がいる」
「……シトラス、怪我とかはしてない?」
「今のところは、な。ただ、おそらく交戦は避けられない。お前の言っていた【花灰】のこともあるなら、紫穂を近づけたくないが……五分五分だな」
「……わかった」
「襲撃に対するアルビオン・ヤードの支援要請が出たあと、ソルベは【バロックパール探偵事務所】でペルラと合流後【人魚の涙】の方を追ってもらってる。【電脳皇帝】の集めた招待客であっちの戦力は充分だ。俺は単独行動と追跡、狩りの方が得意だからホテルを出てすぐに別れた。【電脳皇帝】の許可はとってある」
「シトラス、そのまま必要なら交戦。俺とアスレイも今そっちにいくから。地下だよね。そういえば【花灰】を浴びた女の子の話はしたと思うけど見つけた?」
「いや。……おっと、敵が動くな。通信は切る。また後で」
「……あら残念。気づいてないうちに鞭で躾けてあげようかと思ったのに。【金貨】の作業にはまだ時間がかかりそうだし、【杯】は不安定だから【棒】と一緒にアジトに帰した。つまりアナタはこの【剣】のアタシと存分にヤりあえるってわけ!」
「……遅い!!」
狙い澄まされた鞭の軌道をシトラスは軽く身体を動かすだけで躱した。
「ちっ」
「いい腕だが、この場所で俺を相手にするには力不足だ。……【共鳴】」
シトラスの腕を覆うように金剛石の爪が現れ、銀色の耳と尻尾が生える。
「……【童話】所属。背負いし七罪の呪いは【赤頭巾】。【区核石】に手出しはさせない!」
「いいわ!たまらない!美しき狼の半獣……屈服させて泣き喚かせてあげる!」
「面白い……出来るものならな!」
【区核石】ダイアモンドの前で、爪と鞭が空を切り、激戦が始まった。
**
同時刻、地下の別の部屋。
ダイアモンドを追って地下に降りた紫穂たちが見たものは、身体中に管を取り付けられて培養槽に並ぶ少女たちと、傷だらけの少女を連れたひとりの男だった。
「おや、来客ですか。しかしまだ、あいにく準備が済んでいないのです。この【花灰】を浴びた感染体……エリカでしたか。普通の人間のはずなのに、私の能力の効きが異常に悪くて」
「嫌よ……わたしは……わたしは誰も傷つけたくないわ。【花灰】を浴びて人でなくなったけれど……姿が変わっても……あなたに何をされても……わたしの心は変わらない……」
「……痛みではダメですか。強情な。……ますます手荒に扱って手折りたくなる。そうだ……では、貴女の華を散らしましょうか……」
「……あうっ!」
男はエリカを床に押し倒す。そして服のリボンを解いた。
「……させるか……この下衆め!」
紫穂は素早く抜刀、男の手を斬り落とし、エリカを救い出した。
「……間に合ってよかった。この下衆は私とマリィで倒す。下がっていろ!」
エリカを庇うように紫穂とマリィは武器を構える。
「……くく……」
男は不気味に笑う。
「貴女たち、その少女に触れましたね」
「……っ!?」
途端に、紫穂は激しい目眩を感じて膝をつく。
「紫穂!!」
「あ……ああ……っ……」
エリカとマリィの目の前で、紫穂の髪が白く染まっていく。
「【花灰】は女性にだけ感染する。そして耐性を持つ者を眷属に変え、それ以外の者を、殺す。エリカは【花灰】の眷属。触れた女性はもれなく新たな眷属になる……!そして、貴女に【金貨】のアルカナを持って命じます。ふたりを殺しなさい」
「……お前の……思い通りに……は……」
紫穂は自らに刃先を向け、肩を斬る。
「……私のアルカナは……【正義】……」
とめどなく零れる血と、痛みで無理矢理にでも意識を繋ぎ止める。
「……貴女は人間に危害を加える、人ならざるものを狩る【魔狩】なのでしょう?でしたら、【湖の姫君】である【妖精】、そして触れた女性を殺すエリカは、【魔狩】の対象なのではないですか?」
「……そうだな……」
紫穂は何かを受け入れて、覚悟したかのように一瞬目を閉じ、
「【魔狩】としては、間違いなくそれが【正義】だ」
渾身の力で、刀を一閃した。
**
「……」
マリィとエリカは目を閉じて、終わりが訪れるのを待っていた。
だが、その時が訪れたのはふたりではなく……
「……が……」
「……確かに、マリィは【妖精】で、エリカは【魔】ではあるのだろう」
紫穂は静かに刀の血を払うと鞘に収めた。
「そして、【妖精】であるマリィを選び、エリカに触れた私ももはや【人ならざる者】ではあるのだろうな。だが、【正義】など結局は【正義】の名を借りたエゴにすぎない。ならば、私は【私の思う正義】を、【守りたい者】のために振るおう」
【金貨】を名乗る男は、砂になって崩れた。
同時に紫穂も、その場に崩れ落ちる。
「紫穂!!いえ……ヴァイオレット!」
「ヴァイオレット……ああ、それが……本当の……私の……」
紫穂はそのまま気を失った。脈はあるが、血を失いすぎている。その上に【花灰】の侵食で、髪の一部は白く変色し、おそらく、片目ももう赤に染まっているはずだ。
「……嫌……嫌よ!!あなたが愛しいの。こんな結末を見るために人間としてあなたに出会い、見守っていたわけじゃないの……」
マリィは紫穂を抱きしめたまま、慟哭する。
「……大丈夫。まだ紫穂さんは助けられるよ」
絶望するマリィの耳に優しく、穏やかな声がした。
「ギリギリだけどね。エリカだっけ。あんたの力も借りるけど、いい?」
「はい、わたしにできることならなんでもします」
「とりあえずここからは離れよう。【花灰】の影響が強い場所だと少し不安だから……アスレイ、どこか知ってる?」
「もちろん。じゃあ転移しますよ!」
**
「……チェックメイトだ」
「……くっ……」
マリィたちが紫穂を助けるために転移した頃、シトラスは【剣】を下した。
「……どうしても聞きたいことがあってな。「紅鏡」、「ネリウス」、「ヒバナ」……「先代mYtH」、「運命の輪」のアルカナ保持者の女……どれか知っている名前はあるか?」
「……そうね……敗者として誠実に答えてあげるけれど知っているのは4番目だけ。アクト・フィグメントには小アルカナの二つ名を持つ四幹部と研究部、あと噂だけど教団があると言われてる。その教団や研究部に関わっているらしいわ。会ったことも興味もないけれど」
「……【区核石】を狙っているのはお前たちなのか?高天区の件も?」
【剣】は首を横に振る。
「アクト・フィグメントの四幹部レベルで【石喰い】なんて動かせないわよ。あれには関わっていない。それよりも、【区核石】と【共鳴】できる存在がいるなんて。アナタ、何者なのかしらね?」
「……さあな。正直、俺にもよくわからないんだ。聞きたいことは聞いた。行っていいぞ」
「アルビオン区の【ダイアモンド】は諦めるわ。【金貨】の方も負けたようだし。【電脳皇帝】ーーいや、【mYtH】幹部の【皇帝】のアルカナ資格者、アルビオン区の最年少【区主】アーサー。彼が【人魚の涙】を取り戻せるかは、また別のお話だけどねえ」
【剣】の女が消えるとともに、停電が復旧し、天井から吊るされていたアルビオン・ヤード職員は救出された。
地上フロアに戻ったシトラスは、「これで商業施設の件は解決したな」と呟くと、そのまま人混みに紛れて姿を消した。
**
柔らかな月の光の下、紫穂は静かに目を開く。
「……気がついた?」
「……マリィ、私は」
「……」
マリィはそっと紫穂に鏡を渡す。そこに映る紫穂の姿は以前とは異なるものだった。一部白く変わった髪も、緋色に染まった片目ももう元には戻らない。
「少し髪の色と瞳の色が変わっただけだ。私は私のままだし、マリィとエリカを守れたなら安い代償だ」
「……かつて冬の夜、あなたの母親の願いに答えて、消えかけたあなたの魂の灯を守ったのは【妖精】である私。その時に貴方の母親が貴方につけたかったヴァイオレットという名前も知ったの。だけど、本当はあの時……貴方の魂はもうもたなくて……湖の妖精の魂とチェンジリングをしたの……だから、あなたの魂は……【妖精】のもの。あなたのアルカナが聖騎士の姿を取ったのも……魂の形に由来するのよ」
一羽の花宿鳥がそっと紫穂に寄り添い、小さく鳴いた。今の紫穂にはもうその姿がはっきりと見える。ヴァイオレット。すみれの花。おそらく紫穂の母が最も愛した、春を告げる花。
「もしかして私に人ならざるものが見えたのは」
「そう。あなた自身が人ではないから。【魔狩】ができたのはそのせいよ。もっとも妖精にも悪しきものはいる。気に病む必要はないの」
マリィは、少し言い淀んで、やがて覚悟したかのように唇を開いた。
「紫穂。あなたは【妖精】が嫌い?憎んでいる?」
「……私は確かに魔を憎む。だが、祖母は【妖精】を信じ、幼い私も信じていた。確かに、嫌いになって、憎んだことはあった。だがそれは、突然見えなくなったからだ。……遠い高天区の親戚に引き取られ、学業以外は修行、夜は魔狩の日々。学校で友人ができることもなく、頼れるのは自分だけ。……寂しかったんだ。マリィに会うまで……ずっと、さみしかった。今回アルビオン区の旅だって……マリィに会えなかったら……ひとりぼっちで」
紫穂の瞳からこぼれた雫を、マリィはそっと指で拭う。
「……紫穂。私の本当の名前を教えるわ。あなたがもうさみしくないように。私たち、今日からまた新しい関係を始めましょう。もう離れ離れにならないように、契約を。そして願わくば【恋人】として」
紫穂は小さく頷く。
「……マリィ・モルガネッタ」
「じゃあ、私のこともふたりの時は……ヴァイオレットと呼んでほしい」
「……ええ。愛しているわ。ヴァイオレット」
「私の正義は君のために。愛しているよ、モルガネッタ」
こうして、契約は果たされた。




