第五幕 春は廻り、そしてゆく
巨大な蛸の石喰いとの戦いから一週間。
負傷と穢れにより消耗が激しかった莱人と紡、宵霧の三人は高天祓穢の長である京の屋敷で療養していた。
「おはよう、ツムギ」
「莱人さん。【石喰い】との戦いで無茶したって聞いたんですけど大丈夫ですか?」
莱人はひらひらと手を振って見せるが、その手にはまだ白い包帯が巻いてあった。よく見ると呪文のようなものが書いてあるのがわかる。
「大丈夫。京さんは心配症なんだ。傷はもう塞がってるけど【石喰い】の体液や能力は未知数だからって。毎日穢れを澱として排出する儀式を受けてるよ」
「.....石喰いって何なんですか?なんで区核石を狙うんですか?」
「その辺は正直、京さんの方が詳しいかな。俺は現代シルクスーーこの世界の昔のことはあんまり知らない。だけど、京さんは多分、その時代を知ってる」
「……昔の……シルクス……」
「……あのー……わっ!」
会話するふたりの間に空中から降ってきたのは一羽のペンギンのような生き物。京に付き従うリンである。
「おっと」
莱人はとっさに彼女を受け止める。
「ますたー、京さんからの伝言です。今夜、此花桜の下で夜の花見を行おうと思うんよ。夜なら宵霧はんも参加できるやろし。高天区を救ってくれたお礼に美味しい料理もたくさん用意するから、楽しみにしてな?」
「お、花見!高天区の春はこうじゃないとね。そうか、此花桜はもう満開なんだ」
莱人は嬉しそうに言ったあとでまつ毛を伏せた。
「花見……ええと、此花桜の下での宴会。高天区に古くから伝わる春を祝う伝統行事、でしたっけ」
「紡は本当に勉強熱心だし真面目だなー。でも、これだけは覚えておいて」
莱人は微笑んだあと、耳元で声を落として囁く。
「本に書かれていることや、歴史が真実とは限らない。だからこそ、君はこの世界を自分の足で歩いて、見て、識るんだ」
「……莱人さん?」
「だから、宵霧や俺やみんなでいろんなとこに行こう!って話。今回【石喰い】を倒した功績で、俺たちの部隊には専用の艦が与えられるってことになったって東雲さんからメッセージ来ててね。まあ俺は帰ったら操縦免許試験が待ってるから応援よろしく!さ、朝ごはん食べに行こっか」
「はい」
ーーこの時の莱人の言葉の重みと意味を紡はずっと先で知ることになる。
耳元で囁かれた声はいつもの莱人からは想像できないぐらいに低く、重かった。紡の耳に焼きついたこの言葉はこれからも離れることはないのだろう。
(……この世界を自分の目で見て、識って、真実を見つける……)
ーーそうすれば。
「僕がここにいる意味も、【可能性】であり【災厄】にもなりうる意味もわかるのかな」
一陣の風が、小さな呟きをさらっていく。
**
「ごちそうさまでした」
朝食を終え、紡と莱人は中庭に向かう。
それを見届けた京は小さくため息をついた。
「……今日もまたこの日が来たんやなあ……あれから何度も何度も春は廻ってそして逝く……一度目から数百年……二度目からは今年で十年か……」
「……京さま。お供します」
「……せやな。葵に会いに行かへんとな……」
高天神社の奥。神木である此花桜の下には小さな墓標がある。数百年を経た墓碑銘は、もうその名を知らぬ者には読めないだろう。
「……また春がきたよ。葵」
京はそっと葵の花を捧げる。応えるようにふわりと此花桜の花弁が舞った。
「葵。ほら、楓はこんなに大きくなったんよ。引き取った頃はガリガリに痩せてなあ、目つきも狼みたいに鋭くて……」
京はそう言うと墓前に楓を引っ張ってくる。
「み、京さま。昔のことはあまり言わないで貰えたら……その、黒歴史というやつです……」
楓は照れ臭そうに顔を背け、猫耳もぺしゃんと潰れている。
「……今じゃ立派なうちの懐刀なんよ。葵が見込んだ通りに、【吊るされた男】のアルカナも使いこなしてはるしなぁ。うちも、頑張って区の長やるから……」
最後の声は、涙が混ざっていた。
「……待ってるから……もう一度会えるまで……待ってるから……」
「……京さま……。葵さま、あなたがいつか戻るまで僕は……全てを賭けて京さまをお守りします。ですので、できればお早いお戻りをお待ちしております」
応える声はない。
死者は何も語らない。それがこの世界の理。生と死を別つ境界は、揺るがない。
「……さ、行こうなあ。夜のお花見の準備もせんと。それに、紡や莱人たちに昔のシルクスの【語られざる歴史】を告げる覚悟も決まった。じゃ、先に戻っとるね」
京は一足先に墓前を後にする。
「……葵さん」
京の姿が見えなくなったのを確認してから、楓はひとり墓前に跪く。
「……俺は貴方に救われました。貴方の言葉を胸にこうして生きています。ですが、どうしても思ってしまうのです。もしもあの時、もっと力があれば……貴方を死なせることはなかったのではないかと……」
**
楓という名をもらう前、俺はただの黒猫だった。
こんな風に人の姿ではなかったし、人になる想像さえもできなかった。
今でも、覚えている。
ある雨の日。野犬に襲われて傷だらけで死を待つばかりの黒猫は、ある研究所の猫好きの研究員に拾われた。
彼女は、黒猫の治療をしたのちに、培養槽の中に猫だった俺を沈めた。
ーー猫としての俺の記憶はここまでだ。
次に目覚めた時にはもう、俺は猫ではなくなっていた。
培養槽から出された俺を見て、研究員の女は喜んだ。
「人間と猫を組み合わせる実験に成功した」と。
この実験がどんなに冒涜的でおぞましいものであるのか、人間として生きている今の俺にはよくわかるけれど、当然ながら当時の猫だった自分には分からなかった。
「ナンバー96」と名付けられた俺は人間として生きるための知識や訓練を受けるようになった。研究所には他にも犬や鮫、鳥、ペンギン、蝶など様々な生物と組み合わされた人間がいて、まとめて【獣纏い】と呼ばれていた。
【獣纏い】はやがて研究所を運営する組織の汚れ仕事を担当するようになる。
そして、皮肉にもその初仕事で俺は、葵さんに出会ったのだ。
**
月の綺麗な夜だった。
ターゲットとして指定された葵という男は、此花桜の下で京という白い狐の女と寄り添って酒を飲んでいた。
この夜に初めて見た此花桜の美しさは今も脳裏に焼き付いている。
此花桜が見える屋根の上、少しの間自分の受けている任務など忘れるほどに。
「月が綺麗だな。京」
「葵と見る月はほんまに綺麗やねえ」
風に乗って聞こえてくる幸せな恋人たちの会話。
ちくりと胸が痛む。
幸せというものを俺は知らない。それでも何かその光景が眩しくて輝いて見えて暖かくて泣きそうになった。
痛みを感じないふりをしてかぶりを振る。手にした短刀を握りしめ直す。
流れてきた雲が月を隠す。息を止めて屋根から飛び降りてーー
「きゃああああ!」
聞こえてきた悲鳴に愕然とする。
【文字喰い】の獣ーー狼の群れ。
「うわあっ!」
襲いかかってきた一頭を慌てて仕留めた。
「京!ここはオレがなんとかする!お前は逃げろ!」
白い狐の女は戸惑いながらもその場を離れ駆けていく。
「……な、何これ……ターゲットを仕留めるどころか……」
狼の群れは増え続ける。雲が晴れた月の光が照らし出したのは絶望的な数。
「……ふうん。あんた、オレを殺しにきたのか?」
「え、えっと、その」
「……だったら朗報だ。どのみちあんたが手を下さなくてもオレは今日この場で死ぬ。そういう運命なんだよ。けど、ま、ギリギリまで足掻きたいとこでね。手を組もうぜ?」
この人は正気なのだろうか。自分を殺しに来た相手と手を組むなどと。
「……この状況では任務どころじゃありません。どのみち任務に失敗したら処分されます。どのみち死ぬならどうだっていい。貴方の提案、飲みますよ」
男はひどく穏やかな顔をして、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「そう来なくっちゃ。そうだな、ひとつだけ約束してくれ。オレがくたばったら、形見の刀を持っていけ。そうすればお前は生きられる。アルカナ【吊るされた男】の資格者としての試練と運命は待ってるだろうけど、お前には生きててほしいって思ったんだよ。おんなじ瞳をしてた子どもをよく知っているからな。さてーー」
狼の群れが動きを止める。嵐の前の静けさ。
男は日本刀を構える。俺は背中合わせに短刀を構える。
これが、最初で最後の共闘。
「……オレは葵。お前の名前は?」
「……名前なんてない。ナンバー96としか」
「じゃあ、オレが名付けよう。オレと京が出会ったきっかけは紅葉狩りだった。だからこう名乗れ。【楓】と」
狼が唸る。俺と葵は同時に別々の方角へ駆け出した。
それから先のことはよく覚えていない。とにかく生きようと必死で、狼の群れを斬り続けた。気がつくと全身は【文字喰い】の遺したインクに塗れ、短刀は折れていてーー少し離れた場所で、葵が静かに目を閉じていた。
「……葵さん」
彼との約束を果たすために、形見の日本刀をそっと手に取る。
「……今の俺には……まだ、重いです」
この瞬間、【吊るされた男】のアルカナは「楓」という名前とともに葵から名もなき獣纏いの少年に受け継がれた。
のちに戻ってきた白い狐の女は何も言わずに傷だらけでインクに塗れた俺を自らの屋敷に迎え入れてくれた。
やがて修練を積んだ少年は、【高天祓穢】の長を守る懐刀となった。
あの日、あんなに重かった刀も今では命を預けられる立派な得物になった。
葵が眠る満開の此花桜の下。楓はひと雫だけ静かに涙を落とした。
**
「はい、どんどん食べて。たこ焼き、美味しいやろ?」
「はい、美味しいです」
満開の此花桜を静かに満月が照らす中、屋敷の中庭で小さな宴が催されていた。
出席者は京と楓、紡と莱人と宵霧だけ。蛸や肉の焼ける香ばしい匂いが中庭を満たす。
京は桜の花弁を使った高天酒が進み、ほろ酔いのまま静かに口を開く。
「まずは本当ありがとう。莱人さんたちがおらんかったら正直今回は危なかったわあ。でなあ、紡はんたちは思ったんやない?【石喰い】って【区核石】ってなんなん?って。まあ、あんまり楽しい話じゃないから、ほろ酔い気分じゃないと話せへんよ。堪忍なあ。でも、紡はん達には知っておいてもらいたいから……」
**
この世界がいつからできたのか、世界のはじまりを知る者はいない。
神話にのみ遺るこの世界の名前は「悠久」(エテルノ)という。
かつて人間界ジェンティアと精霊界ソウル・エームを巻き込んだ精霊戦争のことですら、もう神話としてこの世界では語られるのみ。
精霊戦争が終わって、精霊達が精霊界に帰ったあとも、精霊の残滓は【精霊因子】としてこの世界に残り続けた。
そしてシルクスと名を変えたのち、一度だけ世界で大戦が起こり、世界は平穏を取り戻した。
ここまでは私も神話や文献でしか知りません。
今から語るのはさらにその後のこと。
現代シルクスの始まりは世界暦3000年頃とされています。
大戦から1000年の時が経ち、人々が精霊や戦いを忘れかけていた時代に、【災厄】が起こったのです。
まず、急に大地が痩せ、作物が実らなくなりました。次に南方の火山島が火を噴き、大寒波で海の半分が氷に閉ざされました。
それでも人々は生きることを諦めずに、世界の探索と研究を続け、それから100年後に、【災厄】と共に現れた巨大な鉱物ーー【界軸石】の近くでは豊かな土地が保たれていることを突き止めました。
ーーそして【求石戦争】が起こったのです。
その戦いの中で【界軸石】は奪われ、砕かれ。
その石を【区核石】として、現在の区が誕生したのです。
今のように区同士を平和に行き来するなんて100年前に戦争が終わるまで考えられなかった。
100年前、【文字喰い】や【石喰い】と呼ばれる魔物が現れたことで皮肉にも戦争は終わりました。団結しなければシルクスの存続自体が危うかったから。
その後、今のような仮初の平和を取り戻せたのは【世界】のアルカナによるとも、今は世界から喪われた【神】の奇跡によるとも言われていて、詳しいことは何もわからない。
流星から雨が降り、極光の虹色の光が世界を満たした翌朝、全ては終わっていたの。
あれだけいた【文字喰い】も【石喰い】も跡形もなく消え失せた。
区は【区主】を選出し、不戦協定を結び、シルクスのどこかに塔を建てて封印都市を築いた。その都市の場所を知る者はいない。【区主】さえも知らないの。
そしてシルクスはしばらく平和を謳歌していた。
だけど、そうね……50年前に初めて【白紙域】が観測され、【文字喰い】や【紙魚種】が現れるようになった。【白紙域】となった場所にはかつて区があったけれど【区核石】は消えてなくなり、住んでいた人々はみんな砂になった。【白紙域】は広がり続け、30年前ぐらいからは区の中にさえ【紙魚種】が出るようになった。
今の現代シルクスはこんな状況なの。
**
「ふう。とりあえずシルクスの歴史はこんな感じよ。まああとでまとめた機密資料を莱人に渡すから。実は本題はこれから話すことなの」
京は残った花見酒を飲み干して、静かに告げた。
「3000年からずっと人々が生きることを諦めなかったのは【預言】が残っていたから。この預言を知るのはもう、私やmYtHの長ぐらいでしょうけど。
神は降り立ち 世界の滅びは廻る 」
「……そ、それだけっすか?なんかもっとこう……長いのかと」
拍子抜けしたような宵霧に、
「そうやろ?でも伝わっとるのはこれだけ。なんかもっと長かったかもしれへんけど、今となってはもうわからないんよ。けど、これ機密だし口外はせんといて。あと、忘れんといて……あ、あかん……眠うなってきて……」
ふらつく京をそっと楓が支える。
「飲み過ぎです。皆さん、宴はこれでお開きとなります。明日お帰りになられるとのこと、せめて今夜はゆっくりお休みください」
楓と京が屋敷の部屋に消え、残された三人は月を見上げていた。
「慌ただしかったっすねえ」
「そうだね……巨大蛸も強かった……世界を識るためにも僕はもっと強くならないと……」
「強くなるのも大事だけど、紡、宵霧。旅は楽しむもんだ。さーて。帰ったら専用小型艦もらえるらしいし、頑張って免許取るからね。明日は早いからふたりともゆっくり休んで」
莱人は、ふたりの肩を軽く叩いて寝室へ消える。
「紡。その、僕もいるから……一緒に強くなろうっす。それに、悪くなかったっす。高天区。夜にしか出歩けなかったから、あんまり世界を見る気って無かったんすけど……紡となら色んな景色を見てみたい」
「そうだね。一緒に色んな景色を見よう。楽しみだなあ……」
急に重くなった肩を見ると、紡は小さな寝息を立てている。宵霧は小さく笑うと紡を布団に運んでいって、掛け布団をかけた。
「……ありがとう。楽しい旅になったのは紡のおかげっす。そして、旅も悪くないって……今初めて、心から思うんすよ……」
夜は穏やかに更けていく。
月明かりの下で此花桜は静かに散っていき、春は廻り、そしてゆく。




