第三十四幕 すべてはまだ霧の中
扶桑地区の森林地帯。
養蜂が盛んな地区を抜け、高山地帯への境目付近。霧に包まれた湖は凪いだ水面に白い世界を映していた。
「すごい霧……」
「本当にこんなところに【瞳】があるんですか?」
紡は振り向いて異変に気づく。そばにいたはずの仲間が誰もいない。
「戦力を分散させるのは基本ですよ」
「……黒蛇……!」
目の前に立つのは男の姿をした黒蛇だ。見慣れない姿だが本能的に彼だとわかる。染みついた血の匂いと独特の瘴気が消えることはない。
「この姿では初めて会うというのにわかるのですか。やはりあなた方は瘴気や星を害するものには敏感なようですね」
「あなた方……?」
紡は首を傾げる。黒蛇が言う自分以外の瘴気に敏感な存在とは誰なのだろうと。
「おや、覚えていないのですか。大事な妹のことなのに」
「妹……?僕に妹がいるなんて記憶にないけど……」
紡は警戒を緩めずに問う。
「滑稽ですね。あなたはそのためにあなた自身を差し出したのに。mYtHの研究員がサレナに無茶振りをして差し出された実験体――今の名が天乃 紡でしたか」
「……僕が色々と忘れているのはわかってる。眠りと苦痛、精霊たちの声。忘却には十分だ。でも、今重要なのは僕の過去じゃない」
紡は静かに意識を集中し、炎を纏った武器を構える。
「ここでお前を止める。沢山の人を傷つけて、緋弦を付け狙うお前だけは……許せない!」
**
「ここはどこかしら」
シレーナはひとり見知らぬ湖のほとりに立っていた。一緒にいたはずの仲間は誰もいない。辺りは霧に包まれ何も見えず、急に強い不安が彼女を襲った。
「紡!」
叫ぶ声に返事はなく、声は霧に吸い込まれて融ける。
「....ひとりぼっちは...久しぶりすぎて慣れないね」
思えばシレーナの近くにはいつも誰かがいた。いい人ばかりではなかったけれど、彼女はあまり孤独を知らない。
「……」
不気味なほどの静寂に包まれて彼女は足を止めた。来た道は霧に閉ざされ、行く道も見えない。
「やはり、孤独には不慣れですか、シレーナ」
「黒蛇....これはあなたの術なのね。みんなはどこ?」
「威勢はいいですが、声が震えている。ひとりぼっちは怖いですか?」
「.....怖くなんかない。わたしはもうひとりぼっちじゃない!紡やみんながいるもの!」
黒蛇はそっと目を細める。
「なるほど、では。こちらを」
シレーナの目の前に差し出されたのは血に塗れたデバイス。本来ならば彼女はそんなちゃちな詐術に引っかかることはない。トリチェッロ区の歌姫には敵も多い。歌姫を狙う相手に襲撃を受けたことは何度もあったのだから。
だが、黒蛇の術を含んだ霧と孤独による不安は判断力と正常な思考を奪い去っていた。
「嘘.....でしょ?」
「あなたたちは確かに集団戦では強い。ですが個人戦ではいかがでしょう?それに、人の心は脆い。崩すのは容易いのですよ」
「....」
シレーナは揺れていた。
人の心を操る相手が、本当のことを言っている保証はない。反面、他の仲間の状況はわからない。
ならば、紡が無事でいる保証だって――
「不愉快ね」
「え?」
霧の中に風が生まれる。
「私の大事なお兄ちゃんを勝手に故人にしないでくれる?黒蛇」
少女の姿をした風は白い髪をなびかせながら両手に持ったナイフで黒蛇を切り裂く。霧が晴れると同時に黒蛇の姿も消えた。
「まさか貴方が出てくるとは思いませんでしたよ。綴葉」
「あなたを放っておくとこの星が危ないって聞いたから。それにあなた、お兄ちゃんに手を出したんでしょ?トリチェッロ区のこと知らないとでも?」
黒蛇は答えない。どうやら本体はもう近くにいないらしかった。
「ええと、助けてくれてありがとう」
綴葉はそっとシレーナに手を差し出す。
「大丈夫?立てる?あのデバイスは偽物だから安心して。黒蛇の幻術でその辺にある石をお兄ちゃんの【栞】に見せてただけだから」
「あなたは紡の妹なの?」
手をとって立ち上がり、シレーナは問う。
確かに彼女の外見は紡によく似ている。真っ白い髪、黒を基調とした服装。身長もそこまで変わらない。違うのは瞳の色ぐらいだ。紡の瞳は金に近い緑色だが綴葉は澄んだ青色だった。
「そうだよ。私は綴葉、紡お兄ちゃんの双子の妹。嘘はついてないけど、今のお兄ちゃんは多分、私のことは覚えてないと思う」
綴葉は長い睫毛を伏せ、俯く。
「何か事情があるのね。聞かないから安心して。わたしはシレーナ。助けてくれてありがとう。よろしくね綴葉」
顔を上げた綴葉は笑ってシレーナの手を取った。
**
「っ、はあ....っ....」
その頃、紡は肩で息をしていた。黒蛇は全く攻撃をしてこないどころかただ立っているだけなのに全く攻撃が当たらない。
「無駄ですよ。まあ時間稼ぎという意味では役に立ったようですが」
「....」
彼はため息をついて精霊同調を解き、本来の姿に戻る。持てる全ての属性を試し、考えられる全ての方法を取っても黒蛇に傷ひとつつけることはできなかった。
「賢明な判断です」
「悔しいけど....今の僕ではお前に勝てない。だから、僕と会話がしたいなら応じるよ。トリチェッロ区の【鏡像】も貴方が作ったものではないようだし」
黒蛇は頷く。
「ええ。あの【鏡像】は鏡の世界と呼ばれている異世界からやって来たものです。異世界のものをコントロールするすべは残念ながらこの世界の住人である私たちにはありません。理由は単純で彼らはこの世界の理の外にいる。そして私たちがその異世界の理を知る術はないからです」
「....それは事実だけどすべてじゃない。貴方たちは、アクト・フィグメントはもうその方法に気づいている。だから、キカートリス――異世界の穴の近くによく現れる。一種の実験をするために。僕の予想では区核石が鍵になる」
黒蛇は紡の言葉に否定も肯定もせずに微笑む。
「そうですね、確かに方法には気づいていますよ。そして貴方も」
「……っ!」
黒蛇の持つ短剣が紡の肩を裂く。咄嗟に気配に気づいて後ろへ跳んだため傷は浅い。だがーー
「……毒……?身体が、重い……」
紡は酷い倦怠感で、その場に膝をつく。
「その鍵の一部。心配しないでください。重要なのは貴方の【血】です。研究はまだ完成していないし、何より貴方は【成功品】なのですから殺しては研究が行き詰まります。ただの睡眠、鎮静効果を持つ薬草の抽出液ですよ」
「……僕の……【血】が、なん……で……」
抗えない眠気に紡は屈し、その場で気を失う。
「……【童話】――コントゥ・ドゥ・フェは現れませんか。この世界に属しながら、この世界の外の理に属す者。……アルカナシステムの構築者たち。それともこちらの意図に気づかれたか。パフェくんは見た目よりずっと頭が切れるらしい」
黒蛇の一瞬の隙をついて、
「……なるほどな。それがアクト・フィグメントの狙いか」
霧の奥から放たれた風刃が霧を払い、黒蛇の髪の一房を切り落とす。
「……シトラス、でしたか」
「霧を払うのは風って相場が決まってるからな。あとはまあ、成り行きだ。実際、あんたの予想通りではあるんだよ。パフェは推論の決定打を求めてたからな。……ただ、俺の個人的な理由もある」
シトラスは寂しげにまつ毛を伏せた。
「この世界に属しながら、この世界の外の理に属す者。あんたが俺たちをそう考えた根拠が知りたい。【童話】のメンバーはパフェも含めてずっと探し求めている。なぜ【七罪の呪い】を背負い、世界にとっての罪人であるのか。目覚めた時から「そうだった」から受け入れる以外どうしようもなかったけど……そもそも俺たちの記憶には欠けがあるから」
黒蛇は一瞬目を丸くし、咳払いをして問う。
「アルカナシステムの構築者は貴方たちではないんですか?区核石の鎮めを行えた時点でてっきりそうだと。区核石は元々隕石――災厄とともに現れた。だからこの世界に属するものではない。それに干渉出来る貴方たちは少なくともこの世界にいながらこの世界の外の理に属していると判断したのですが」
「……アルカナシステムってなんだ?アルカナの資格者は確かに存在しているがシステムとは知らなかったし、そもそも俺たちの力はアルカナ由来じゃないんだよ」
シトラスは戸惑い、お手上げだという意味でため息をつく。
「サレナも元mYtHの方々もアルカナシステムと呼んでいましたが……しかし、当事者だと思っていた方々が何も知らないとは……」
「聞きたいのはほんと、こっちなんだよ。あんたは敵だが、嘘をついてないことぐらいはわかる。気質としては研究者寄りだろうから自分の研究に関することで嘘をつく利点もないだろうし」
「言い当てられるのは癪ですが、そもそもアクト・フィグメントという立場が便利だから所属しているだけです。必要もないのにシトラス、あなたと敵対したくはありませんよ。あなたの戦闘力はアクト・フィグメントの剣を打ち負かすほど。非力で心を操るぐらいしかできない私では相手にもならないでしょう」
「心を?なんかここに来てからモヤモヤするのはあんたのせいか?」
黒蛇は首を横に振る。
「無関係です。そもそもあなたに術が効いている様子はない。やはりこの世界の外の理に属するというのは確かなのでしょうか?」
黒蛇はぶつぶつと何かを呟いて思考を始める。
シトラスは置いてけぼりをくらって、呆れたように呟く。
「……で、これだけのんびり話してるのに俺の血はいいのか?貴重なサンプルだぞ?分析結果を教えてくれるんならやるけど……あ、パフェには内緒で」
シトラスは腕を差し出し、黒蛇は短剣を使って彼の血を確保した。
「……交渉成立です。私は研究と目的には誠実ですから安心してください。のんびり話してるのはやることが無いからですよ。目的のものを手に入れてもらわないと奪えない。そもそも私の術は龍には効かないんですから」
「なるほど。ところで、俺が本当にただのんびり話してるだけだと思ってたのか?」
「シトラスさん、こっちは上手くいったよ!」
晴れた霧の奥から駆け込んでくるのはリュシン。その手にはもう片方の辰砂龍の【瞳】があった。
「な」
「よくやった。ああ、宵霧、勇陽、紡はただ寝てるだけで心配はいらない。血は少し抜かれたみたいだけど――」
シトラスが言い終わる前に宵霧の呼び出した血の槍が黒蛇の鼻先を掠め、勇陽の拳が黒蛇を吹っ飛ばした。不意打ちには弱いらしく、無効化できなかった黒蛇は水飛沫をあげてそのまま湖に着水した。
「契約者と契約者の血に手を出されるってのは月の子ども的には万死に値するっす。黒蛇、絶許っすね」
「紡に手を出すやつは全員燃やす」
「……お、落ち着け……あ、愛されてて何よりだけどな……紡!起きろ!俺にはどうしようもない……!」
珍しくあたふたした様子のシトラスの前に風を纏った少女が着地する。
「お兄ちゃん!シトラスさん、何もせずに傍観していたの?」
「誤解だ!そもそも俺が駆けつけた時にはもう眠ってたから!恨むなら湖に吹っ飛ばされた黒蛇にしてくれ。大体そういう作戦だっただろ、綴葉……」
綴葉はう、と声にならない声を上げたあとで真っ先に紡に駆け寄る。指先が触れると肩の傷は跡形もなく消え失せた。
「……これで大丈夫だけど……よく寝てて起こしづらいなあ。まあ、あんまり寝起きはよくなかったからね。私のことを忘れててもやっぱり変わらないんだ……莱人さんを案内しなきゃだからもう行くね」
「えっ、おい」
勇陽が言い終わる前に綴葉は風を纏って姿を消した。
「じゃ、俺も。本来なら東華区は管轄外なんだけど、ダイアモンド持ちだから少しだけ自由がきく。ゾンズさんと海風にはお礼を言っといてくれ」
シトラスもその場を去り、その場にはシレーナ、宵霧、勇陽、リュシンと眠る紡だけが残された。
「とにかく、ここを離れよう。いろいろと考えたいこともある。黒蛇は湖に落ちた後転移したらしく、もう気配を感じないからな」
**
「ええと……色々ありがとう。僕、本当にあのあとから今までずっと寝てたんだ……」
数時間後、旅館で紡はようやく目を覚ました。
「薬草には毒をもつものも多いので調べてみたんですけど、ラベンダーとカモミールとかなので本当にただのいわゆる安眠系ハーブですね……紡さんって寝不足だったりとかします?」
「どうなんだろう……むしろ寝ていた時間の方が多いはずなんだけど……」
紡は苦笑して林香が淹れてくれた眠気覚ましの薄荷茶を一口飲んだ。
「マジで黒蛇のやつは紡をどうこうする気はなかったのか。海龍もそう言っていたがさすがに肝が冷えたぜ」
「うっすら覚えてるんですけど、彼は僕を【成功品】って呼んでて、僕の【血】がアクト・フィグメントの研究に必要って言っていました。あとはなんだっけ……異世界のもの……理の外?を操るとかなんとか」
海風はじっと紡を見る。
「……ふむ。【可能性】にして【災厄】とはそういう意味か。とはいえまだ不確定要素も謎も多いので言及は控えよう。そもそも紡自身というよりは……」
海風の頭がぐらり、と揺れる。ゾンズ曰く海龍の支配には時間制限があるらしい。
「最後にひとつだけ。【童話】……この世界に属しながらその理の外にいる者たち。その【源点】を調べるといい。もっとも、この世界に残っている記録も痕跡も少ないだろうが。真実と向き合う覚悟があるのなら、イス区の封印都市へ向かうとよいだろう」
海風はその場に倒れ、そのまま寝息を立て始めた。
「最後に意味深な発言残していきやがったな……まあいつものことだが。とはいえ、だ。目下重要なのは四凶への対処だし、辰砂龍も海龍も旧い龍だ。その中で何か手掛かりもつかめるだろう」
紡は頷く。
「そうですね。そういえば黒蛇が僕には綴葉って妹がいるって言ってましたけどどうせ嘘ですよね?」
思い出したような紡に、宵霧が何も言わず【栞】に残った写真を見せる。
「いや、紡。それは、嘘じゃないっす。会ったので」
「え」
紡は驚いたようにじっと写真を見つめる。自分と同じ真っ白な髪。違うのは眼の色と性別ぐらいだった。記憶はないがそれでも、何かつながりのようなものは感じ取れる。
「名前は綴葉で間違いないぞ。莱人さんと一緒にいるらしく、お前が目覚める前にはもう立ち去った。双子の妹らしい。属性は風だろう」
「双子の妹……綴葉……」
紡は小さくため息をついた。
「僕は本当に多くのことを忘れてるみたいだ。とりあえず次に会えたらきちんと話をするよ。でも今は、扶桑の四凶、東華区の件に集中しよう」
「そうっすね。結局僕たちは一歩一歩しか進めないので。紡、本当に何ともないっすね?」
「うん。むしろずっと寝ててごめんね。運んでくれてありがとう」
**
現代シルクスの空の上。雲の上に広がる夜空を見上げながらパフェは小さくため息をついた。
「シトラスがずっと気にしてることはわかってたし、実際【七罪の呪い】についての記録は何もない。手掛かりになるなら黒蛇を利用するのは想定内だけど――本当に俺達ってなんなんだろう。なんだかその理由を知りたいような、怖いようなって感じだなあ」
「バレてたのか。けど、実際に俺たちももう傍観者ではいられないだろ」
温かい紅茶を手に現れたシトラスに、パフェは頷いた。
「ありがと。それはそう、本当にそう。悔しいけどなんだか黒蛇の方がアルカナについての何かをつかんでそうな気がするし。【童話】はリュシン、竜についてはある程度の知識があるけれどアルカナはさっぱりだよ。アルカナってそもそもシステムなの?初耳だよね」
紅茶を受け取ったパフェは一口飲む。甘さは少し心を落ち着けてくれた。
「照眞さんに連絡を取ってみるよ。【神話】の書庫になら少しはアルカナシステムについての記述が残ってるかも。それにずっと、予感がある」
「予感?」
いつもよりも低いパフェの声に戸惑いながらもシトラスは問い返す。
星の光はいつもよりも冷たく、風は頬を刺した。
「きっとね、俺たちは――ひどく歪んだ存在なんだよ」




