第十五幕 鏡の向こう(後編)
霧雨が降っていた。
この島では結界の補助のため、よく霧雨が降るのだという。
「滑らない様に気をつけるんだ」
グーフォに案内されて紡とシレーナがたどり着いたのは地下墓地だった。静かで暗く湿った空間にゆらゆらと魔力の炎が揺れている。
「ここはこの島で生き、死んでいった者たちが静かに眠る場所だ。私が見せたいものはもっと奥にある」
通路の突き当たりの重い扉を開き、グーフォとともに先に進む。仄暗い闇の中を進むと突き当たりには地底湖があった。闇の中なのに水は青く煌めいている。
「ここだ。ここが....人魚の墓だ。トリチェッロ区のために積み上げられた屍たちだよ」
「.....」
シレーナはそっと祈りを捧げる。青い水がゆらめき、人の形をとった。
「あなたは、最後の人魚姫ね」
「.....はい」
「わたしたちは【海鎮めの一族】の成れの果て。儀式で砕けた魂は、もう人魚でも人間でもない。わたしたちはいつか苦しみが終わる未来を願い続けてきた。ああ、やっと【終焉の歌姫】がこの悲劇に幕を下ろしてくれるのね」
青い水がそっとシレーナを包み込む。
「わたしたちはトリチェッロ区の誕生に纏わる罪を憎む。だけど、貴方や今のトリチェッロ区で暮らす人々を憎むことはないわ。わたしたちもまた、トリチェッロ区で生まれて死んでいった者だから、故郷を憎めないの」
青い水はシレーナから離れると、紡をそっと包んだ。
「初めまして。不思議な香りを纏う運命の子。貴方に、【終焉の歌姫】を救う力を託します。彼女は死ぬべきではない。【終焉の歌姫】という役割を誰かに押し付けてしまったことをわたしは.....ずっと悔いていたの。だからお願い。あの子を助けて...」
きらきらと輝く鱗は、アクアマリンの薄片だった。
「あなたは、初めの.....人魚なの?」
「ええ。遠い国の王子に救われ、愛された人魚の女王となった者です。歴代の人魚たちがずっとわたしの意識を守り続けてくれた。この薄片を使えば彼女を救えます。そしてわたしはあなたにも力を残します。海の力を受け取って」
人型を取った水は、そっと紡にくちづける。
「あ....」
静かな凪、穏やかな海。
荒れ狂う海、暗い深海。
生み出し、還す生殺与奪の支配者。
力の奔流は紡の中で荒れ狂い、やがてひとつに溶け合った。
「これが海の力......」
「戻ろう。ここにはもう何もない。彼女たちはようやく、帰るべき場所へ帰れたのだ」
**
「トリチェッロの罪とは、【海鎮めの一族】を【海を戴く花嫁】の名目でセイレーンの生贄にしてきたことさ。トリチェッロ区を築いたのは【海の民】の末裔たちだ」
人魚のオリジナルは、遠い国の王子に救われて幸せに暮らした。だが、その力の複製たちは海からの脅威に対する力でしかなかった。
彼女たちは実験と魔術により壊れるまで戦い続けることを強いられた。
その非道を見た魔女は海の民への協力を打ち切った。だが、海の民の中で魔術に長けた者が、マギ・マグナの魔導士に接触、残っていた人魚を研究材料とし、ついに人間と人魚の混ざった存在が生み出されてしまった。
研究者たちはこの存在を大事に育てた。
「そうして生まれたのが【海鎮めの一族】の始祖。いわば人工の人魚だ。始祖はトリチェッロ区の【セイレーンの揺籠】と呼ばれる島でセイレーンと対峙した。そのあとは……シレーナの方が詳しいだろう」
シレーナは小さく頷いて続けた。
暗い水中の中。
白と黒の人魚は出会った。
この時のセイレーンにはまだ理性も自我もあったから、ふたりは殺し合う前にまずは対話を選んだ。
「……ワタシは海の民たちによって戦闘に駆り出され、道具とされた人魚たちの哀しみと苦しみと痛みと恨みの塊だ。ワタシは海の民と、深海から浮かび上がり襲いかかったモノを憎む。だが、一方では、【生きたい】と願う海の民の願いも否定することはできない。もちろん、そのために人魚たちが受けた仕打ちや、積み上げた屍を正当化することもできないが」
「そうね。私も人工的に作られた人魚というおぞましい存在。【生きたい】という願いは否定されるべきではないけど、そのために他者を犠牲にしても、命を弄んでもいいというわけでは決してないわ。こうしてここにつれてこられたのも、あなたと相打ちになることを願われてのこと。だけど、私は……あなたとは戦いたくない。かといって戻るわけにも行かないの」
白と黒の人魚は考えた。互いを傷つけずに済む方法を。
「……いや、お前は一度戻るべきだ。そして、こう告げればいい。
【セイレーンは10年に一度、人工人魚を要求する。人魚が捧げられる限り、この地を襲わない】と。そのあとは、ワタシの宮殿に人工人魚たちを保護しよう。地上は、生きにくいだろう?」
「……ええ。とても息苦しい。ずっと塔に閉じ込められて、海も見れないの。だから本当はもう戻りたくないけれど……そう告げてまたここに来るわ。約束よ」
「……約束など信用できないが……同族は別だ。安心しろ。もしお前が戻らなくとも、人魚たちは保護してやる」
ーーだけど、始祖の人魚がセイレーンに再会することはなかった。
彼女は、セイレーンからの要求を伝えたあと、ある魔導士の手によって塔で実験を繰り返され、最後には魂と記憶をアクアマリンに封じられた。
このアクアマリンこそが、トリチェッロ区の区核石。
「もしかして、セイレーンがトリチェッロ区に来るのは……」
「ああ。恐らくは、もう一度【始祖】に会いたいのだ。長い年月を経て、理性のほとんどを喪っても。【海鎮めの一族】の人魚たちに対しても、セイレーンは約束を守っていたのだろう。彼女はどこかであの日、もう彼女には会えないとわかっていた。だが、一目惚れというのは強烈なモノでね。たった一瞬だけで心を奪われる。最近でいうと脳を焼かれる、という言葉もあるようだが」
「……僕にはまだ、わからないです……」
紡の言葉にグーフォは微笑む。
「なに、恋愛については個人差が大きい。お前のペースで十分さ。もっとも気づかないうちに恋に落ちているモノかもしれないがね?まあ、恋愛に限らずとも、出会った瞬間に強い思いを抱くことはあるものさ」
「……セイレーンはきっと嬉しかったと思うの。人工とはいえ同族の人魚に出会えて、しかも相手はセイレーンを否定しなかったから」
「……わかるかもしれない。僕の過去はほとんど欠けているけれど……」
紡は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩いていく。
「……手を引かれて鮮やかな夕暮れを見たことだけは、覚えています。どこだったのか、誰かすら思い出せないけれど……」
「……紡」
シレーナはそっと紡の手を取った。
「……わたしね、始祖と同じ顔で同じ髪の色で、同じ目の色なんだって。だから、【終焉の人魚姫】なの。セイレーンの願いを叶えて……そして、静かに眠らせて……同時に始祖も、一緒に眠るの。始祖の力と生命力を喪った時、わたしがどうなるかはわからない。だけどね、生きていても……記憶が残る保証がないって先生に言われてるの」
「……シレーナ……」
「……だから、せめて紡だけは覚えていて。わたしの名前と、今日の夕焼け。オルヅォの味と……やがて歌う最後の歌を……」
「……わかった。僕でいいなら。【天乃 紡はシレーナのことを忘れない】」
「……ありがとう……少しだけ、そばにいさせて」
少女の体温を感じながら思う。
ーー彼女は何も悪くない。
ーー彼女は犠牲になるべきじゃない。
ーー彼女を、シレーナを助けたい。
だって、「理不尽な運命」なら、僕もとてもよく知っている。
炎が灯る。
ゆらめいた感情が、カタチになる。
「理不尽な運命は、壊せばいい」
そうだ。
どうして自分のせいでもないのに、使命や他者に奪われないといけない?
悪いのは他者であって、自分ではない。
そして奪われるのが嫌なら、戦うしかない。
諦めて受け入れるだけでは、何も守れない。
「そうこなくっちゃ」
紡の頭の中で声がする。
「正当な【怒り】はむしろある方が自然だぜ?ツムギ。実験体として苦痛に慣れきってたし、それが自然と思ってただろ?」
ーーうん。
「けど今はそんなの間違いだってわかるよな?お前を愛してくれる人も受け入れてくれる人も、傷つけない相手にも出会った。そしてその逆も。お前は、【怒っていい】。理不尽な運命に、過去に!傷つけてきた他者に」
「……ほう。シレーナ。少し離れておくといい」
「……う、うん」
紅の炎が紡を包む。
激しく燃え上がり、揺らめいた炎は、やがて火種となって紡の心に灯った。
「……ああ、これが【怒り】だ」




