第十四幕 鏡の向こう(前編)
ーー鐘がなる。霧雨の中で、不気味に、どこか哀しげに。
「.....そこまでは濡れずに済んだか」
手早く中庭に干したシーツを取り込んで乾燥機の中に放り込む。
「先生、皆さんには昼ごはんを出しておきましたよ。今日は夏野菜の冷製スープです」
「ああ、助かるよ、シレーナ」
「それで、守備は上々ですか?朝私が鏡の間を見た時は誰も目覚めていなかったようですけど」
シレーナの問いに、
「上々ではないな、【可能性くん】はどうやら夢であると気づいている。それに彼の背後には【童話】がいる。どちらかといえば安全に目覚めさせて事情を話したほうがいいだろう」
「では今日の夜に目覚めるように干渉しますね」
シレーナに目配せをして部屋を出た。今日もいくつも診療の予約が入っている。
私ーーグーフォ・ストラーノは医者だ。正式な医師免許を持っているから、闇医者ではない。ただ、私の存在がこの島の外に漏れることもないため根も葉もない噂がたっていることもまた事実ではあるが。
「先生、この子が昨日から熱を出して」
「口を開けて.....喉が腫れているね。風邪だと思うから受付で薬をもらうように。大丈夫だ、三日もすれば元気になる。お大事に」
「ありがとうございます、先生」
営業時間内は街の住民の診療に充てる。
それが終われば計画の時間だ。
鏡の間には歌が響いている。
シレーナの歌声は包み込むような優しさと透明感を持っている。今彼女が歌っているのはーー
夜の天幕を上げましょう
代わりに洋燈で黎明を
小鳥は朝の訪れを謳う
あなたの目覚めを待っています....
ーー夢からの目覚めの歌だ。
「先生」
「反応はあったか?」
シレーナは首を横に振る。
「私の歌声は夢の中にも届きますけど、夢の中の状況はわかりません....先生も夢に入ったり光景を見ることはできないでしょう?」
「ああ。そんなことができるとしたら妖精や精霊やーー夢魔ぐらいのものだろう。【水鏡の魔女】は鏡の世界の番人だが、彼らが担当するのは本当の鏡の世界の方であり、【ここ】の様な結界異層ではないからな。夢を操り、夢を記憶できるのは夢を見ている者だけさ」
硝子の棺の中で眠る真っ白な少年を改めて見る。どう見てもただの子どもにしか見えなかった。
「....この子もお前と同じ様にその肩に多くのものを乗せていると聞く。シレーナ、この【可能性くん】の目が覚めたら色々話してみるといい。紅茶を淹れてこよう」
**
夢を見た。
海の中で静かに沈んでいく夢。
手招く深淵は深く、暗く、でも懐かしくて、抵抗する気は起こらない。
沈みきってしまうのが正しい様な気さえした。
その刹那。
暗闇の中で歌が聞こえる。
透明でどこまでも澄んだ歌。
「あなたは夢に沈んではいけない」
きらきらと光る泡が身体を包み、浮上をはじめる。
「……はじめて、鏡像に襲われる以外の夢を見たなあ……」
呟いて、体を起こす。
正直なところ、【水鏡の魔女】キラリティに会えば夢は終わると思っていた。
何故ならば、現実の僕は【水鏡の魔女】キラリティ・スペッキオには会っていないからだ。夢は、夢を見ている者の記憶から作られている。見ていないものを夢で見ることはない、と。
けれど、僕たちは予定通りに【水鏡の魔女】キラリティ・スペッキオには会ったし、【鏡像】事件のことで協力することになった。
「……出会ってない人に会うのは齟齬にならない?それともキラリティに僕はどこかで会っていたということなのかな」
眠気覚ましのカフェラテを飲んで、今日は自由調査だと思い出した。
「……自由調査なら今まで行ってない場所に行けばいいのかな」
もっとも、行ったことのない場所に行けるのかはわからないけれど。
実際、キラリティと会った後の自由調査では行ったことのない地区には行けなかったし。
「とりあえず海辺とかに行ってみるかな……」
夢で海を見たせいか、無性に海を見たかった。
**
誰かが歌っていた。
潮騒の中に、夢で聴いた歌が混ざる。
とても透明で綺麗で、澄み切った声。
「……」
ふらふらと導かれるように足がそちらに向かう。
「やっと会えたね、【可能性クン】」
声の主は少女だった。淡い水色の髪を潮風に靡かせて彼女はそっと手を僕に差し出す。
「君は?」
「……そろそろ夢から覚める時だよ。私はシレーナ。安心して。キミに危害を加えたりしないから」
「……やっぱり、ここは夢の中なんだ」
迷わずに少女の手を取る。
少女が頷くと、世界が砕けた。
**
「……う……」
ゆっくりと紡は目を開く。
見慣れない天井、冷たい感覚。少なくともここはトリチェッロ区の北地区ではない。
「……お目覚めかな」
「……っ」
素早く体を起こし、【栞】に手をかける。
【鏡像】事件が解決していない以上、見知らぬ人物は警戒しなければ。
「……警戒心が強いのは悪いことではない。そもそも【鏡像】に襲われ、目が覚めたのは見知らぬ場所の硝子の棺の中だからな。だが、私とシレーナは、君を害する気もないし、そうする理由もないと言っておこう」
「……ひとまず信じます。【鏡像】事件とあなたたちが無関係とは思えないし、僕が被害者だって事実もある。だけど、今の僕ひとりであなたたちに勝てるとは思えない……特にマスクをしたあなたには……」
紡はペストマスクをした人物を一目見て思う。只者ではないと。
「ほう。見る目があるな。いかにも。わたしのアルカナは強力無慈悲。この世で最も平等な力だよ。その力を狙うものから逃れるために一族がこうしてある島の結界異層に引きこもるしかなかったぐらいにね」
「……でも、貴方はその力を僕に振るってはいない。それだけで戦いを避ける理由になります」
「ふむ……どうやら私の持つアルカナに察しがついているようだ。騙るために主張しているアルカナではなく、本物の方に」
「大体は。そして今の発言で確信が持てました。この世で最も平等。しかし騙ることができるもの。そしてトリチェッロ区の【霧に包まれた島】の伝説。あなたは……」
紡は、静かに告げる。
「トリチェッロ区の【墓守】……そして【死】のアルカナ保持者ですね」
「……おやおや、これは。【可能性くん】は想像以上に頭がキレるようだ。記憶喪失と聞いていたから少し侮っていたよ。【梟】の情報網で、【物語】がいくつかの区の事件を解決したことは聞いていた。だが、香具津紫穂や宝 莱人の戦闘報告は上がってきたが、月読宵霧や君ーー天乃 紡に関してはあくまでサポート役だと聞いていたからね……しかし、そうか。頭脳もまた武器であることは間違いない」
マスクの人物は優雅にお辞儀をする。
「評価を改めよう。そしてこちらも誠実な対応を。私はグーフォ・ストラーノ。かつてアクト・フィグメントに所属していたこともある先代の【神話】の医者だ。そして【死】のアルカナ保持者だよ」
「先生、そんなことまで明かしてもいいの?」
グーフォを先生と呼ぶ少女は夢の中で聞いた声と同じ声を持っていた。
「そうだね。じゃあ私も。初めまして、紡クン。私はシレーナ。今代の【海を戴く花嫁】に選ばれた、【海鎮めの歌姫】の一族の末裔なんだ。私と先生は、キミに会いたかったの。……お願いがあったから」
「お願い?僕に……?」
戸惑う紡に、
「……まずは私たちの事情を聞いてもらいたい。その上で協力するかどうかを決めてくれ。断った場合でも、君に危害を加えたりはしないと約束しよう。この計画はとても個人的で、エゴに満ちているのだから。だが、君ならば、私の行動がもし受け入れられなくとも、シレーナの願いを否定することはできないだろう。……彼女の……生きたいという願いを」
「……それは……!」
否定などできない。たとえ紡以外にも、誰にも。
「……きみは……誰かに、理不尽に生を……奪われようとしているの?」
「……オルヅォを淹れたら、耳を傾けて欲しいの……今まで誰にも話せなかった……私の一族の背負う……呪いにも似た、使命を」
**
遠い遠い昔。
まだこの場所がトリチェッロ区ではなかった頃。
運河もなく、人々が海の上で生活していた頃のお話。
海の神は気まぐれだった。気まぐれな嵐や高波に人々は翻弄された。
それだけでは飽き足らず、海は人々に魔物まで運んだ。
その頃、まだ力も守りも持たなかった人々はただ奪われるしかなかった。
けれど、やがて人間に転機が訪れる。
海の民の中で戦わずに逃れた者たちは、各地で知恵と力を得た。
その知恵と力をもって、彼らは【魔女】に協力を求めた。
ーー【海からくるモノ】に対抗する力が欲しいと。
【魔女】は告げる。
「嵐の夜に砂浜に打ち上がった人魚を捕らえて来なさい」
**
そして嵐の夜に、美しい人魚が浜辺に打ち上げられた。
澄んだ青と深海の漆黒が混ざり合った髪にエメラルドの瞳。
海の民は人魚を眠らせて、【魔女】に引き渡した。
【魔女】は人魚に魔術実験を繰り返し、海の民が【海から来るモノ】に対抗するための生体歌唱兵器を作り上げた。
海の民はようやく、儚い平穏を勝ち取ったのだった。
海から来るモノと同じ場所から来た異形を、当時の【魔女】も海の民たちも道具としか見なさなかった。
陸に囚われた人魚は水槽以外の場所にはいけず、彼女の意思も踏み躙られた。
しかし、どんな地獄にも光は差す。
海に焦がれて謳う人魚の歌は、たまたまひとりの青年の耳に届いた。
青年は遠い国の王子だったから、【魔女】の恐ろしさも知らず、海の民には素直に怒りを露わにした。
「君は何も悪くない。君が海の民を傷つけたわけではないのに、どうしてこんなに酷い扱いを受けなければならないんだ?」
「……」
人魚の目から落ちた涙は、琥珀に変わった。
王子は人魚を盗み出した。
追いかけて来た【魔女】は王子を罰することもなく、人魚を奪い返すこともなく、ただ、祝福を授けた。
「君たちの行く道は茨の道だ。だが、どうか幸せに」
王子の国は、人魚を受け入れた。
精霊と共存して来た国は、人ならざるものにも寛容だった。
やがて王子と人魚は結ばれて、人と人魚の血を引くものが生まれた。
穏やかな楽園もいつかは滅び、朽ちる時が来る。
皮肉にも嵐は海からではなく、陸からもたらされた。
人魚の国は、侵略者たちに抗った。
美しい歌声を武器に変えて、人と人魚の血を引く王や女王は命が続くまで戦った。
美しい楽園が燃え落ちた時。
人魚の女王は最後の末裔に祝福という名の呪いを送った。
「いつか、海に沈み、海底に積み重なった海の民の罪と、わたしたちの嘆きがこの世界を襲った時、この歌で全ての幕を引きなさい。最後の、人魚姫」
**
「これが、一族の魂に刻まれた記憶。私の使命は……自らを贄として、トリチェッロ区が秘密裏に積み重ね続けた罪の輪廻を……終わらせることなの」
「……きみは……【人魚姫】なの?だけど、海の民の罪はわかったけれど、それがどうしてトリチェッロ区に関係するんだ……?」
グーフォは答えずに、ドルチェを机に置いた。
「それに関しては今から目にすることになる。だが、シレーナも君も悲しい話に触れて少し疲れているだろう?まずは休憩をとった方がいい。私は先に行っているよ」
「ありがとう、先生」
グーフォが部屋を出ると、シレーナは紡にドルチェを食べるよう促し、オルヅォを追加してくれた。
「ありがとう、シレーナ……って呼んでいいかな?」
「うん。シレーナでいいよ。私もキミのことツムギって呼んでいい?ほら、同じぐらいの年齢みたいだし……」
その言葉に、
「え?シレーナは人魚姫の末裔で何百年も生きているんだと思ってた」
「ああ、私は人工的に作られたセイレーンで……人間と人魚のハーフ、みたいなものかな。そのための儀式の時に、最後の人魚姫の記憶を受け継いだんだって」
「人工的って……」
紡の胸の奥で、何かが生まれる。今はまだ形もなく、激しくもない、ある感情の種火。
「……今でも……人間は人魚を道具にしてるの……?」
ゆらゆらと、波のように、感情が、揺れる。
「……人魚姫は最後に、蒼く美しい石になった。彼女は海の民を憎み、海から来たモノも憎んだけれど、人間全員を見捨てることはできなかったの。それは、一緒に笑い合って、愛おしいと思い、思ってくれた人間たちを知っていたから。彼女は相反する感情に苦しんで、黒く染まった部分を海の底へ沈めた。蒼い石は、このトリチェッロ区を護る区核石ーーアクアマリンに。そして黒い石は……贄を求めるセイレーンに……」
「……贄を求める……まさか、トリチェッロ区の罪って……」
シレーナは、そっと紡の手を握った。
「行こう。先生が、待ってる。大丈夫だよ……」
シレーナの手は、小さく震えている。
「……シレーナ。……僕はあくまでトリチェッロ区の客人でしかないけど、それでも……ここにいる間は、きみの王子様になるから……信じて欲しい、人魚姫」
「そんなこと言われたら……嬉しくて泣いちゃうよ……私、この世界から消えちゃうのに……全部上手くいったって……きっと消えちゃうのに……」
泣き出したシレーナの手を強く握る。
「……僕は【可能性】の塊なんだって。きっと見つけてみせる。シレーナが犠牲にならない方法を。……そりゃ……僕ひとりだけじゃ難しいけど……仲間がいるし、きっとなんとかなる!」
だから、真実を知らなければならない。それがどんなに重いモノでも。
ーーそのことによって、たとえ仲間と戦うことになったとしても。




