いつも綺麗で、だから憧れていた
ナエドコが舌なめずりをして言った。
「さて、もういいだろう。これからは食事の時間といこう」
しかし美玖は眼前の陰険な悪意に対して、強気の笑みを見せた。
「そんな死に方、絶対にごめんだわ」
言うや彼女は後ろに回していた手を前に突き出し、ナエドコの鼻づらを風刃で刺した。
通常、一つ目の技では荒神にダメージを与えることはできない。二つ目だって無理だろう。しかし、ここにナエドコの弱点がある。他の荒神と違って身体を巨大化させなかったということは、全体的に肉体の強化がおざなりになっているということだ。
結果、彼女の風刃はナエドコの肌を切り裂きこそしなかったものの、針で刺したような痛みを与えた。
「ぎゃあああ!」
「春原さん!」
「美玖!」
呼応するように巴も動いた。彼女もずっと地面に寝転がっていたわけではない。刀を召喚し、バレないように少しずつジェルを切っていた。
二人で手を取り、一目散に駆け出した。
しかし、一度はまった罠から抜け出すのは容易ではなかった。
「逃ガサナイ」
驚異的な速度で追いついたレアが二人の襟を掴んだ。ぐんと強い力で引っ張られ、二人の足が地面から離れる。
咄嗟に巴は刀を逆手に持ち、レアの胸に突き刺した。レアがひるんだところで美玖が下半身を振ってレアのすねを蹴り飛ばした。襟から手が離れ、身体が自由になる。
拘束されていた時間はわずか一秒。極限状態の中で、二人ともそれまでにない最高の動きができていた。
しかし、繰り返すことになるが、一度はまった罠から抜け出すのは容易ではないのである。
その一秒の間に、ナエドコが怒りに燃え、二人を追いかけ始めていた。
「逃がさんぞぉおお!」
分体のレアさえも踏み越え、二人に追いすがってくる。
そして、──
「美玖!」
その瞬間、脳が高速で働いて、一瞬の間に多くの情報が駆け巡った。
巴は反射的に手を伸ばした。けれどもその手は空を掻いて終わった。
彼女の方からも手を伸ばしていたのが見えた。
掴めなかった手を再度掴もうとして、身体の反転が間に合わないせいで後ろに引っ張られていく彼女を追いかけられない。
「美玖!!」
巴はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
刹那の記憶は曖昧で、この時の彼女の顔は思い出せない。手だけを見ていて顔は見ていなかったのかもしれないし、無意識に封印しているのかもしれない。
最期に、彼女が自分の名前を呼んだ気がした。
「美玖!!」
「シハハハハ。残念だったな、春原巴。わしの勝ちだ。こいつの脳はわしがいただいた」
残った美玖の死体を吐き出し、ナエドコは言った。
どうしてそんなことができるのだろう。死んだから、これ以上存在を獲得することはできないから吐き出したのだろうか。
「せっかくなら脚の方から少しずつ存在を獲得したかったものだな。まあ、逃がさずに済んだだけ良かったとするか」
「ふざけんなよ……」
「ん? どうしたんだ、春原巴」
しわがれ声が癇に障る。二度と喋れないよう、今すぐに声帯を潰すしかないだろう。
「殺してやる……!」
巴は牙を剥いた。
ナエドコに飛びかかると、閃華を使い、乱雑に刀を振り回した。血のように赤い光が辺りに舞う。
レベル3の風刃が効いたのなら、閃華だってダメージを与えるだろう。
実際、巴の予想通り、ナエドコはぶつけられる乱撃にひるんだ。
しかしそれまでだった。わずかに出血させたが、いずれも致命傷には至らない。
「止めんかぁ!」
反撃として伸びてきた爪を躱し、一歩後ろに下がった彼女は、残切を使う決意をした。
(後のことを考えるのはもう止めだ。これで息の根を止めてやる)
残切は通常の一刃を残すだけでなく、より強力な、鋭い一撃に変えて残してくれる。そうでなければ、緑トカゲの鱗を切り裂けなかったはずだ。
「はあああ!」
再度踏み込み、乱撃を開始する。そしてその中に一度だけ、すり抜ける攻撃を混ぜた。
「いい加減にうっとうしいぞ! 人間風情が!」
口から拳大の人間の骨が吐き出され、巴の顔面に直撃した。その衝撃に巴は顔をのけぞらせる。
だがその攻撃も、さらに彼女の怒りを高めるだけだった。
「お前はここで死ねッ!」
さらに残切を使用し、やたらに斬りつける。
目の前の醜い生き物に美玖が取り込まれたということがショックだった。何か大切なものを台無しにされたような気持ちになったのだ。
一瞬、閃華でナエドコの目を狙える隙があった。巴はあらかじめそう決めていたかのように刀をそこに突き刺そうとする。
しかし、
「レア! グズグズするな!」
ナエドコに呼ばれ、先ほど踏まれて半分ぐちゃぐちゃになったレアが突然間に割って入ってきて、代わりに巴の刀を受ける。
予定調和の動きを崩され、逆に巴に隙が生じた。
そしてナエドコは、その隙を突いてレアごと彼女を殴りかかってきた。ナエドコにとってレアは分体の一つということのようだ。物同然の扱いをしている。
もう避けることは絶対に不可能だ。だがここでこのまま殴られるわけにはいかない。ここで下がったら、もう二度とこいつの前に戻れなくなるかもしれない。
「シハハハハ、これで終わりだ!」
巨大な腕で殴られた彼女は、ピンボールのように吹き飛ばされ、地面を転がった。
殴られた右肩とわき腹が痛み、刀を握る手に上手く力が入らない。転がった時に口の中を切ったようで、鉄臭い味が口内に広がる。
けれど巴もまた、ナエドコに攻撃していた。
「あああああああああああ! 貴様、何をした!?」
突如ナエドコが全身から大量の血を流して身悶えた。特に頭部の傷口が一番深い。
ナエドコの腕が殴りかかってくる直前、彼女は用意した全ての残切を発動してやったのだ。
耐え難い疲労が押し寄せ、もう指一本動かせなくなる。出すものがなくなった胃がきゅうきゅうと締め付けられる。
しかし妙なことだと巴は違和感を抱いた。
仮面は硬く、他の斬撃は全て防がれたのに、右上の部分だけが仮面を粉砕して一番深い傷を負わせている。その一撃だけ強力なのには何かわけがあるはずだ。
ナエドコは頭を振って血を払い飛ばすと、恨みがましい目で巴を見た。
「シハハハハ、まさかすでに目覚め始めていたとはな。気づかなんだわ。今日のところはここらで勘弁しておいてやる」
そう言って扉を開け、自閉空間へと退散し始めた。
自分の身に危険を感じたらすぐに逃げ出すのがナエドコのやり方だ。食事の瞬間以外は全て分体に任せておくのが本来の彼の流儀。たとえ相手を追い詰めていても、危険は冒さない。
疲労困憊の身体で巴は消えて行くナエドコに腕を伸ばした。
「…………待てよ」
「シハハハハ、次は必ずお前を食ってやる。覚悟しておけ」
嫌な高笑いを残して、ナエドコは闇に消えた。
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