第六章 論理の瓦解
数日後。千代田区、本社ビル十七階。
田中は総合企画部の自分の席に座っていた。デスクの上には、計算書が積まれていた。窓の外、皇居の森の上に、梅雨入り前の重い雲が低く垂れ込めていた。雲の底が、ビルの上端と同じ高さにあった。
ドアがノックされた。
資産運用部門の部課長が数名、入ってきた。全員がスーツを着用していた。一人はネクタイが微妙に緩んでいた。それぞれの手に、厚みの異なる資料を持っていた。表紙が擦れ、角が折れているものもあった。社内用の資産評価資料だった。先頭に立つ部長は五十代とみられる男で、額に汗が光っていた。その後ろに続く課長連の顔にも、同様の汗が浮いていた。
「田中さん、シルバーニックスのアドバイザーと直接話をさせてくれないか。我々が長年、どれだけの思いでこの資産を管理してきたか、彼らは分かっていない」
部長の声は低く抑えられていたが、語尾がわずかに揺れた。
田中は一度頷いた。それから立ち上がり、廊下へ出た。部課長たちが続いた。革靴の音が、廊下を連なって進んだ。
隣の小会議室のドアを開けた。
シルバーニックスの若手アナリストが一人、座っていた。ノートパソコンの画面に向かって何かを入力していたが、一同が入室すると顔を上げた。二十代後半とみられた。白いシャツの袖が、一回だけ捲り上げられていた。
部課長たちは、若手アナリストを囲むように椅子を引いた。椅子の脚がカーペットを擦る音が、部屋に広がった。若手アナリストはノートパソコンの画面を一度見て、それから部課長たちを見た。
「この物件は、先代の会長が苦労して手に入れた記念碑的なビルなんです。地元との関係も深い。収益還元などという無機質な計算で、半分以下にされるのは耐えがたい」
部課長の一人が言った。声が、語尾で揺れた。手元の資料のページを、指先でめくった。めくった先のページを、若手アナリストの方へ向けた。そこには写真が印刷されていた。外観写真だった。ビルの正面玄関に、竣工記念と思われる花輪が並んでいた。
若手アナリストは写真を一秒見た。それからノートパソコンの画面に視線を戻した。
別の部課長が口を開いた。
「ここの含み損を認めてしまえば、我々のこれまでの努力は何だったのかということになる。どうか、あと一割、いや五分だけでも評価を戻してもらえないか」
若手アナリストは、キーボードの上に置いた両手を動かさなかった。画面のスプレッドシートには、数字の列が並んでいた。部課長が差し出した外観写真を入力する欄は、どこにもなかった。
部課長たちの声が重なり始めた。一人が資料のページを増やし、別の一人が数字に手書きで傍線を引いた資料を取り出した。アナリストとの距離が、少しずつ縮まっていた。アナリストは背もたれに背中をつけたまま、画面と部課長たちの間で視線を往復させていた。額に、薄く汗が浮いていた。
アナリストが田中に視線を送った。
田中は部屋の隅に立っていた。
田中は一歩前に出た。近くの椅子がその勢いでずれた。
「もういい。出て行ってくれ」
部屋が静かになった。
空調の唸りだけが残った。
「田中さん、何を言うんだ。我々は会社を守るために……」
「お粗末すぎる」
田中はドアを開けた。廊下を無言で指差した。
部課長たちは立ち上がった。一人は顔が赤くなっていた。一人は唇を結んだまま資料をまとめた。資料の端が揃っていなかった。それでも彼は揃え直さずに脇に抱えた。もう一人は椅子を引いたまま戻さずに部屋を出た。全員が出たところで、田中はドアを閉めた。
部屋に、田中とアナリストの二名だけが残った。
アナリストは眼鏡を外し、レンズをシャツの裾で拭いた。それから眼鏡をかけ直し、小さく息を吐いた。残りの二名は、部課長たちが去った後も、手元の資料から目を上げなかった。一名がページをめくった。ページをめくる音だけが、部屋に響いた。
「田中さん、彼らは本気で、感情でスプレッドシートが書き換わると思っているんですかね」
田中は答えなかった。部課長たちが去った後のカーペットを見ていた。椅子が不規則に引かれ、足跡がカーペットの毛足を乱していた。戻さずに出て行った椅子が、テーブルから斜めに突き出したまま、静止していた。
田中はその椅子を一脚、テーブルに対して直角に戻した。それから自分の計算書を手に取り、部屋を出た。
その日の夕方、田中のデスクに、シルバーニックスの封筒が届いた。封筒の表面には、差出人の社名だけが印刷されていた。中から一枚の紙が出てきた。最終サマリーだった。右下の欄に、係数が印字されていた。
「〇・七」
田中はその紙を、前日の計算書の上に重ねた。二枚の紙が、デスクの端に並んだ。蛍光灯の光が、その表面を均一に照らしていた。




