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買収  作者: 北 尤
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第七章 査定の虚像

 千代田区、本社ビル十七階の小会議室。


 室温は二十六度に設定されていた。壁に沿って並んだ四台のシュレッダーが、断続的に紙を噛み砕く低い音を立てていた。窓の外、皇居の森の上に、梅雨入り前の重い雲が低く垂れ込めていた。雲の底が、ビルの上端と同じ高さにあった。


 テーブルは長方形で、十二脚の椅子が六対六で向き合っていた。その半分以上が空いていた。テーブルの表面に、蛍光灯の白い像が歪みなく映り込んでいた。


 田中は、テーブルの中央に一冊のバインダーを置いた。厚さ五センチ。表紙には何も書かれていなかった。


 テーブルの片側、田中の左手には、シルバーニックスの三名が座っていた。全員が日本人だった。全員が濃紺のスーツを着用し、それぞれの前にノートパソコンと黄色いリーガルパッドを置いていた。三名の中央に座る新田は、白いシャツの袖を二回捲り上げていた。左腕の時計が、蛍光灯の光を受けてテーブルに反射を落としていた。新田の左右に座る二名は、ノートパソコンの画面に目を向けたまま、指先をキーボードの上に置いていた。


 部屋の隅、壁際の折り畳みテーブルには、マイトマンのアクチュアリーチームが陣取っていた。売り手側の責任準備金デューデリジェンスを担当していた。買い手側のマイトマンチームは、この場にはいなかった。アメリカ国内で作業していた。マイトマンの三名は、それぞれ分厚いバインダーを広げ、電卓を手元に置いていた。一名だけが顔を上げ、入室した田中を一度見た。それから再びバインダーに目を落とした。


 テーブルの対面には、メルローサーチのアドバイザーチームが座っていた。買い手であるPETの代理だった。その隣に、PETの面々が並んでいた。日本社長は濃いグレーのスーツを着用し、手元のファイルに目を落としていた。その隣、テーブルの端にモーリス・ゴールドバーグが座っていた。彼は椅子を大きく後ろへ傾け、両腕を胸の前で組んでいた。椅子の後脚が、カーペットに二点だけ接地していた。ゴールドバーグは入室した田中を一度見た。それから視線をテーブルの中央のバインダーに移した。


 新田は、田中が置いたバインダーを手に取らなかった。


 代わりに、上着の内ポケットから一通の短いサマリーを取り出し、田中の方へ滑らせた。紙がテーブルの表面を滑る音が、小さく鳴った。紙面には、田中が算出した総資産額に対し、一律に「〇・七」を乗じただけの数字が印字されていた。


 田中は、その数字を五秒間見た。


「これは何だ」


 田中の声は、吸音パネルに覆われた壁に反射することなく消えた。


「マーケットの回答です」


 新田は、指先で銀色のクリップを弄びながら答えた。声は低かった。


「右側の責任準備金は、契約者に対する確定した負債です。一円も削ることはできない。だが、左側の資産はどうだ。銀行への劣後ローン、法人向け貸付、含み損を抱えた不動産。これらを今日、セカンダリーマーケットで叩き売った瞬間に残るキャッシュは、良くて七割。その瞬間に、右側の山が左側の土地を飲み込む。それが債務超過の物理的な正体です」


 新田の左右に座る二名が、リーガルパッドに何かを書き込んだ。ペン先が紙を走る音だけが、しばらく続いた。


 田中はゴールドバーグの方を一度だけ見た。ゴールドバーグは組んだ腕を解かなかった。椅子の後脚が、カーペットをわずかに圧迫したまま、静止していた。


「係数〇・七の根拠は」


「根拠はありません。これが『出口』の価格です。一〇年前に予定利率を上げた。そのツケを今、市場が強制的に取り立てている。この〇・七を乗じた瞬間に、純資産は消滅します」


 壁際のマイトマンのアクチュアリーが一人立ち上がり、売り手側チームのリーダーに紙を一枚手渡した。リーダーはそれを受け取り、数字を見た。それから田中の方を一度だけ見た。田中も、その方を見た。


 田中は手元にあるシャープペンシルの芯を折った。折れた芯の破片が、白い計算書の上に黒い点となって転がった。田中はそれを指で弾き飛ばし、電卓を引き寄せた。


「再査定する」


「時間の無駄です。今日、格付け機関が動く。明日にはこの『〇・七』が『〇・五』になるかもしれない」


 新田が立ち上がった。彼の椅子が床のカーペットを擦る音だけが、部屋の静寂を乱した。左右の二名も、それに続いて立ち上がった。二名はノートパソコンを閉じ、リーガルパッドを揃えた。その動作は、ほぼ同時だった。ブリーフケースのラッチを開け、資料を収める音が続いた。


 ゴールドバーグは動かなかった。傾けた椅子の角度を保ったまま、テーブルの中央のバインダーを見ていた。それから、隣の日本社長に向かって短く何かを言った。英語だった。日本社長は頷き、手元のファイルに一行書き込んだ。


 メルローサーチ側の一人がノートパソコンの画面を見たまま、隣の同僚に小声で何かを言った。隣の同僚は頷いた。


 田中は電卓の液晶画面に目を落としていた。ドアが閉まった。シュレッダーが、また一枚、紙を噛み砕いた。


 ゴールドバーグはまだ席を立っていなかった。傾いた椅子の後脚が、カーペットに二点だけ接地したまま、動かなかった。


 田中はシャープペンシルの芯を出し、計算書の余白に「〇・七」と書き込んだ。筆圧で紙が微かに凹み、その溝に蛍光灯の光が溜まった。


 窓の外で、重い雲が皇居の森を音もなく覆っていた。

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