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買収  作者: 北 尤
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第八章 外部情報の介入

 午後二時。千代田区、本社ビル。塚田社長の執務室。


 窓の外、皇居の森は湿った低い雲に覆われていた。雲の底が、ビルの中層階と同じ高さにあった。室内の加湿器が、デスクライトの光の中に微細な霧を吐き出していた。霧は光の輪の中で白く浮かび上がり、輪の外側で消えた。


 塚田は、デスク中央に置かれた黒い電話機の受話器を耳に当てていた。右手の指が、手元のメモ帳の端を、三回、一定のリズムで弾いた。


 田中は、塚田の正面の椅子に座っていた。膝の上にバインダーを置き、その厚みを指先で確認した。表紙の角が、指先に当たった。


「……はい。漆原さん。……左様ですか」


 受話器から漏れる金属的な音声が、静止した空気を震わせた。塚田の視線は、デスクの端にあるクリップホルダーの一点に固定されていた。メモ帳の端を弾く指が、止まった。


「日本資本による救済。……承知いたしました。一度、検討のテーブルに乗せます」


 受話器が戻った。プラスチックが台座に衝突する音が、部屋に響いた。


 塚田は立ち上がった。椅子がわずかに後退した。背後の窓へと歩いた。革靴が、カーペットを踏む音がした。窓の前に立ち、外を向いた。


「漆原氏からの連絡だ。倉田という男を推している」


 塚田は振り返らなかった。窓ガラスに、彼自身の輪郭が映っていた。皇居の森の上の雲が、その輪郭の背後に広がっていた。


「マスコミが動いている。日本の会社が日本を救うという構図だ。……明日、倉田がここへ来る。企画本部長の山口君にも、その旨を伝えておけ」


 田中はバインダーを膝の上に置いたまま、塚田の背中を見ていた。窓ガラスの中の塚田の顔は、皇居の森の灰色に溶けていた。


 翌日。午前十一時。本社ビルの車寄せ。


 一台の銀色のフェラーリが滑り込んできた。タイヤがアスファルトを噛む乾いた音が止まり、エンジンの振動が消えた。ドアが開いた。


 降りてきたのは、光沢の強いグレーのスーツを着た男だった。倉田だった。右手の薬指に、ダイヤの指輪があった。午前の光を受けて、指輪の表面が乱反射した。倉田は車寄せに立ち、一度だけビルの外観を見上げた。それからエントランスへ向かった。革靴がアスファルトを叩く音が、車寄せに響いた。


 総合企画部のフロア。


 企画本部長の山口が、エレベーターホールに立っていた。エレベーターの扉が開くと、山口は倉田の方へ歩み寄り、右手を両手で包み込むように握った。山口の背中が、前方へ十五度ほど傾いていた。


 倉田はフロアに入った。イタリア製の革靴が、カーペットに深く沈み込んだ。歩くたびに、その沈み込みが繰り返された。フロアの男たちが、それぞれ顔を上げた。一人が隣の同僚に小声で何かを言った。隣の同僚は頷かなかった。


 倉田はフロアの中央に立った。胸ポケットから金のペンを取り出し、掌の上で一回転させた。ペンの表面が、蛍光灯の光を受けて一瞬だけ光った。


「数字の計算は終わりましたか。私がここへ来た理由は、救済です」


 倉田の声が、フロアに広がった。共鳴の多い声だった。フロアの壁に当たり、反響した。


 田中は自分の席に座ったまま、倉田の方を見た。


 背後のデスクでは、業務担当の藤田次長が自分のネクタイを指先で締め直し、倉田の姿を見ていた。藤田の口角が、数ミリだけ吊り上がった。それからまた、元に戻った。


 倉田は、テーブルの上に一冊のパンフレットを置いた。表紙には、金文字で「利回り一五%の約束」と印刷されていた。パンフレットの表紙が、蛍光灯の光を受けて光った。


 田中はパンフレットの端を見た。倉田の指が触れた部分が、わずかに変色していた。


 塚田社長がそのパンフレットを手に取った。デスクの上には、他の書類が並んでいた。セキュアードの査定資料と、大東火災の提案書だった。塚田はパンフレットを手に取ったまま、それらの書類を肘で脇へ押しやった。書類の束が、デスクの端に向かって数センチ滑った。


 倉田は窓の外のビル群を指差した。


「外資に切り売りされるのを待つ必要はありません。私のスキームなら、このビルの価値も、責任準備金の重みも、すべてプラスに転換できる」


 山口本部長が大きく頷いた。胸ポケットのチーフが、その動作に合わせてわずかに揺れた。それから静止した。


 田中は電卓を引き寄せた。液晶画面に「0・七」という数字が表示されていた。倉田が置いたパンフレットが、テーブルの上で電卓の液晶画面に影を落としていた。


 廊下では、コピー機が連続的な排気音を上げ始めた。広報の社員が、コピー機の前で用紙の束を揃えていた。揃えた束を、また揃え直した。

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