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買収  作者: 北 尤
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第五章 砂上の予測

千代田区、本社ビル。総合企画部のフロア。


 フロアの中央に、大型の円卓が置かれていた。天板は直径二メートルほどの楕円形で、表面に書類とバインダーが広げられていた。蛍光灯の白い光が、天板の中央に歪んだ像を作っていた。窓の外には、梅雨の重い雲が千代田区のビル群を覆っていた。


 円卓を囲む椅子に、数名が座っていた。


 円卓の一端、ホワイトボードに最も近い席に、営業企画担当の藤田次長が座っていた。四十代とみられる男で、ネクタイが胸元でわずかに緩んでいた。手元には、グラフの印刷された資料が広げられていた。グラフの折れ線は、右肩上がりに伸びていた。折れ線の先端に、赤いマーカーで丸が付けられていた。


 その正面に、山本部長が座っていた。両腕を胸の前で組み、ホワイトボードに視線を向けていた。ホワイトボードには何も書かれていなかった。


 田中は山本の斜め後ろの席に座っていた。手元の資料にペンを走らせていた。


 山本が、藤田の資料のグラフを指差した。人差し指の先が、折れ線の頂点に触れた。


「藤田君、この数字の根拠は何だ。格付けが落ち、買収が現実味を帯びれば、通常は解約が激増し、新規は止まる。だが、君の予測では継続率が九割を超えている。マーケットの常識から乖離しすぎているのではないか」


 山本の声は低かった。


 藤田は答えなかった。手元の湯呑みを持ち上げ、音を立てて啜った。湯呑みをテーブルに戻す音が、部屋に響いた。陶器がテーブルの木の表面に触れる、乾いた音だった。それから藤田は円卓を見渡した。


「山本部長も田中さんも、かつては営業企画にいた。現場の肌感覚は、お二人もご存知のはずでしょう」


 誰も答えなかった。


 藤田は立ち上がった。後ろの椅子が床を擦った。ホワイトボードのマーカーを手に取り、キャップを外した。マーカーの先端がホワイトボードの表面に触れた。


「教職員」


 太い文字だった。藤田はマーカーを置き、円卓の方へ向き直った。


「山本部長、現場の『質』を分かっていないのは困ります」


 藤田の口元に、薄い笑みが浮いていた。


「うちのメインの契約者は、この連中だ。彼らは新聞も経済誌も読まない。世間で買収が騒がれようが、自分たちの共済の延長線上に共英があると思い込んでいる。一度判を押せば、死ぬまで払い続ける。会社が変わろうが、連中は気づきもしないし、解約する知恵もない」


 部屋の空調が、低い音を立て続けていた。


 円卓を囲む数名の視線が、藤田とホワイトボードの間を往復した。一人が手元のボールペンを、資料の上に静かに置いた。ボールペンが資料の表面に触れる、小さな音がした。


「新契約も落ちません。教員の世界は閉鎖的だ。先輩が加入していれば、新任も右に倣えで入ってくる。格付け? 資本構成? そんなものは、あの連中にとっては呪文に等しい。だから、継続率は九割を維持し、新契約も右肩上がりで推移する。これが我々の導き出した現実的な予測値です」


 藤田は言い終えると、椅子を引いて座った。椅子の脚が床を鋭く擦った。湯呑みを再び手に取り、一口啜った。啜る音が、静まりかけた部屋に広がった。


 山本は動かなかった。


 腕を組んだまま、ホワイトボードの「教職員」という文字を見ていた。蛍光灯の光が、文字の表面で細く反射していた。数秒が経過した。山本の背中が、わずかに動いた。


「……これを、そのまま査定チームに回せと言うのか」


 山本の声は、喉の奥で押し潰されたように低かった。


「ええ。彼らの愚鈍さこそが、我が社の資産価値ですから」


 藤田は正面を向いたまま言った。湯呑みを両手で包んでいた。


 部屋が静かになった。


 空調の唸りだけが残った。


 円卓を囲む数名は、それぞれ手元の資料に視線を落としていた。誰も口を開かなかった。窓の外で、雲の影がビルの壁面を横切った。フロアの明るさが、一瞬だけ変わった。


 田中はペンを持ったまま、手帳を開いた。ホワイトボードに残された「教職員」という文字を、手帳の白いページに書き写した。ペン先が紙を走る音が、静まり返った部屋に小さく響いた。


 山本は組んだ腕を解かなかった。ホワイトボードの文字を、まだ見ていた。

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