第四章 不動産の死
千代田区、本社ビル十七階の特設会議室。
廊下からドアを開けた瞬間、空気の密度が変わった。室温は二十六度に固定されていた。窓のブラインドは完全に下ろされており、蛍光灯の白い光だけが、テーブルの表面を均一に照らしていた。ブラインドのスラットの隙間から、外光が細い線となって壁に落ちていた。
会議用テーブルは、通常の倍の長さだった。テーブルの表面は傷一つなく、蛍光灯の白い像が、その中央に歪みなく映り込んでいた。
テーブルの片側に、PET側の不動産部員が八名、隙間なく並んでいた。全員が濃紺のスーツを着用していた。ネクタイの色だけが、それぞれ異なっていた。田中ら共英生命側が入室すると、八名は示し合わせたように、ほぼ同時に立ち上がり、深く頭を下げた。椅子が床を擦る音が、八脚分、ほぼ同時に鳴った。
田中は自分の側の席に着いた。
テーブルの端には、共英生命の不動産部が事前に提出したバインダーが四冊、積まれていた。その上に、クリップで留めた計算書が重ねられていた。資料の持ち主たちの席は空いたままで、そこを埋めるように総合企画の面々が座っていた。椅子が、テーブルからわずかに引かれた状態で並んでいた。
対面の八名の手元には、それぞれバインダーと計算書が広げられていた。余白に、細かい数字の列が手書きで書き込まれていた。インクの色は青と赤が混じっていた。
PET側の不動産部長が、バインダーの最初のページを開いた。五十代とみられる男で、銀縁の眼鏡をかけていた。左手の人差し指に、太い金のリングがあった。リングの表面に、蛍光灯の光が細く反射していた。
「この物件のキャップレートは、現状のテナント構成では八%を下回ることはありません」
部長の右隣に座る担当者が、ノートパソコンの画面を田中の方へ向けた。スプレッドシートが表示されていた。縦に物件名が並び、横にキャップレートと現在価値の数字が並んでいた。数字の列の右端に、査定額の合計が表示されていた。
田中は手元の計算書と、画面の数字を交互に見た。帳簿上の資産額と、画面上の査定額の差を、電卓で確認した。差額の数字が液晶に表示された。田中はその数字を一度見て、電卓を置いた。
担当者がノートパソコンを操作した。画面上の数字が更新された。別の物件の査定額が表示された。前の物件と同様の乖離があった。
その作業が、十七回繰り返された。
部長がページをめくるたびに、担当者がノートパソコンを操作した。画面の数字が切り替わった。田中は電卓のキーを叩いた。差額を確認した。電卓を置いた。その繰り返しだった。会議室の空調が、一定の低い音を立て続けていた。
十七回目の物件の査定額が表示された。担当者がノートパソコンの画面を田中の方へ向けたまま、静止した。
田中は、手元の計算書から目を上げ、PET側の不動産部長と視線を合わせた。
「DCF法のロジックは理解できる。だが、これは理論上の数字だ。実際の市場取引において、これほど極端なディスカウントが正当化されるケースは稀だ。市場価値の推移も、一定の変数としてモデルに組み込むべきではないか」
部屋が静かになった。
空調の低い唸りだけが続いた。
PET側の部長は、手元のモンブランの万年筆を握った。指先が白くなった。首筋から頬にかけて、赤黒い色がせり上がってきた。眼鏡のフレームの上で、こめかみの血管が一本、浮き出た。金のリングをはめた左手が、テーブルの上で静止した。
「これは、我々のグローバル・スタンダードだ。市場価値などという不確かなものを混ぜれば、モデルの整合性は崩壊する。君たちは一〇年前も、そうやって不確かな『期待』を価格に乗せて失敗したのではないか」
部長の声が、最後の一文で震えた。
田中は下を向いて低い声でつぶやいた。
「DCFだけでなく、市場価値を加味すべきというのは、経営大学院の教科書にも、証券アナリストのテキストにも明記されてるが」
部長は答えなかった。電卓に手を伸ばし、数字を一つ打ち込んだ。それから手を止めた。
部長は万年筆を置いた。それからバインダーのページをめくった。
田中は電卓に手を伸ばし、数字を一つ打ち込んだ。それから手を止めた。
部長は万年筆を置いた。それからバインダーのページをめくった。次の物件の査定表が現れた。担当者がノートパソコンを操作した。画面の数字が切り替わった。
作業が再開された。
一時間後、PET側の担当者が最後のページを閉じた。バインダーを閉じる音が、部屋に響いた。部長がバインダーの表紙を開き、署名欄にモンブランの万年筆を走らせた。インクが紙の上を一度だけ滑った。部長はキャップを閉め、万年筆をスーツの内ポケットに戻した。
査定報告書が、テーブルの中央に置かれた。
田中はそれを手に取った。最終ページの合計欄を見た。不動産資産の合計値が、一行の数字で記されていた。田中は電卓でその数字と、手元の計算書に記された責任準備金の数字を並べた。液晶画面に、二つの数字の差が表示された。
田中は電卓を置いた。
PET側の八名が立ち上がった。椅子が床を擦る音が、また八脚分、ほぼ同時に鳴った。彼らはバインダーとノートパソコンを手に取り、一列になって部屋を出た。最後の一人がドアを閉めた。
会議室に、田中と総合企画の面々だけが残った。テーブルの上には、共英生命の不動産部が提出したバインダーが四冊、査定前と同じ場所に積まれたままだった。
ドアがノックされた。
田中は立ち上がり、ドアを開けた。廊下に、三名の男が立っていた。全員が日本人だった。先頭に立つ男がシルバーニックスの新田だった。東邦生命の案件を手掛けた男だった。濃紺のスーツに、白いシャツ。袖が二回捲り上げられていた。残りの二名はそれぞれ、黒いブリーフケースを右手に提げていた。
「入っていいですか」
田中はドアを大きく開けた。




