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買収  作者: 北 尤
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第三章 総合企画部

 二〇〇〇年、初夏。千代田区。


 エレベーターの扉が開いた。厚い毛足のカーペットが、機械音を飲み込んだ。廊下には人影がなかった。壁に沿って並んだ間接照明が、化粧パネルの天井を均一に照らしていた。光源は見えなかった。天井の白い面だけが明るく、廊下の床と壁には、光の直接当たらない薄暗さが残っていた。廊下の突き当たり、窓の外には初夏の空が広がっていた。雲が低く、湿気を帯びた白さだった。


 突き当たりの重厚な木目調のドアに、真鍮のプレートが掲げられていた。「総合企画部」とだけ刻まれていた。プレートの表面に、廊下の間接照明が細長く反射していた。田中はドアノブに手をかけた。冷たい金属の感触だった。握った瞬間、掌の体温がノブに移り始めた。




 フロアには十五台の大型スチールデスクが、等間隔に並んでいた。デスクとデスクの間隔は均一で、通路の幅はどこも同じだった。そこに座る男たちの胸には全員、金色の縁取りのある社章が光っていた。社章の縁が、頭上の蛍光灯を細く反射していた。誰も顔を上げなかった。キーボードを叩く音も、ページをめくる音も、カーペットに吸い込まれていた。窓際の空調ユニットが、低く唸り続けていた。フロアの端、窓の外では、隣のビルの壁面が初夏の光を受けて白く光っていた。


 田中は、フロアをゆっくりと歩いた。革靴の底が、カーペットの毛足を押しつぶす感触だけがあった。音はなかった。すれ違う男たちは視線を上げなかった。一人だけ、田中の方をちらりと見た。年齢は三十代の半ばとみられた。背中がわずかに伸びた。それからすぐに、手元の書類に目を戻した。その書類の余白に、鉛筆で何かが書き込まれていた。数字だった。


 フロアの一番奥、窓を背にした部長席に、山本が座っていた。


 窓の外には、千代田区のビル群が広がっていた。山本のデスクは、他のデスクより一回り大きかった。表面に書類は一枚もなかった。整理された書類の束が左端に置かれ、その隣に黒い大理石のペン立てがあるだけだった。ペン立ての中には、三本のボールペンと、一本の赤鉛筆が立っていた。赤鉛筆の先端が、他より短かった。


 山本は書類に目を落としたまま、しばらく動かなかった。


 ページをめくる音がした。それからまた、静止した。フロアの空調の唸りだけが続いた。


 田中がデスクの前に立った。


 山本が顔を上げた。目元の皺が、十年前より深くなっていた。こめかみから白くなった髪が、蛍光灯の光を受けて薄く光っていた。首筋の皮膚が、以前より薄くなっていた。山本は田中を一秒見た。それから視線をデスクの上の青い表紙のファイルに移した。


「戻ったか」


「たった今、着きました」


 山本の声は低く、乾いていた。フロアの空調の唸りが、その声の後ろで続いていた。山本はファイルの表紙を指先で一度だけ叩いた。手の甲に、細い血管が浮き出ていた。その指先が、わずかに震えていた。震えは一秒ほど続き、止まった。


「ニューヨーク現法の閉鎖報告書は読んだ。CEOとしての君の処理は、本社の査定チームも高く評価している」


 フロアのどこかで、電話が一度鳴った。誰かが取った。低い声で短く何かを言い、受話器を置いた。それからまた、空調の唸りだけが残った。


「だが、ここからが本番だ。君に戻ってもらう必要があった。各部へは、私の名前で話を通してある。社長も承認している。」


 山本がファイルを開いた。黒々とした数字の列が、ページいっぱいに並んでいた。高利率商品の満期支払予定表だった。一〇年分の数字が、細かいフォントで縦に積み上がっていた。ページの右下に、赤鉛筆で丸が付けられた数字があった。丸の線が、二重になっていた。


「予定利率と運用利回りの乖離は、もはや内部留保で補填できるレベルを超えている」


 山本はファイルを田中の方へ、デスクの端まで滑らせた。ファイルがデスクの表面を滑る音が、小さく鳴った。田中はそれを手に取った。最初のページの右下の丸を見た。それからページをめくった。次のページにも、赤い丸があった。その次のページにも。田中はページをめくる手を止めた。ファイルの厚みを、指先で確認した。まだ半分以上残っていた。背表紙のリングが、指先に冷たく当たった。


 田中はファイルから目を上げた。


「塚田社長は、どこにいらっしゃいますか」


 山本は答えなかった。


 デスクの上の電話機を一度だけ見つめた。受話器は、置かれたままだった。電話機の横に、小さなメモ用紙が一枚あった。何かが書かれていたが、田中の位置からは読めなかった。メモ用紙の端が、空調の風でわずかに持ち上がり、また戻った。


 窓の外で、雲の影がビルの壁面を横切った。フロアの明るさが、一瞬だけ変わった。それからまた、蛍光灯の均一な白さが戻った。



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