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買収  作者: 北 尤
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第二章 帰国

2000年 午後八時。四十五階。


 エレベーターの扉が開いた。共用廊下、壁に沿って仕込まれた間接照明が、化粧パネルの天井を柔らかく照らしていた。光源は見えない。天井の白い面だけが均一に明るく、廊下の床と壁には光の直接当たらない、落ち着いた薄暗さが残っていた。床はカーペット敷き。足音が吸われ、廊下は静かだった。廊下の突き当たりには隣のテナントのドアが見える。磨りガラスの向こうに、まだ人影が動いていた。シルエットが椅子に座り、モニターの青白い光に縁取られている。


 田中は廊下を左へ曲がった。


 自社のドア。スチール製の枠に、磨りガラスのパネル。ガラスには会社名のカッティングシートが貼られていた——文字の端が、間接照明の柔らかな光を薄く反射している。ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触。鍵はすでに開いていた。




 押す。室内に入る。空洞だった。


 かつてPCモニターが並んでいたデスクの表面には、四角い影だけが残っていた。パネルディスプレイが床に重ねて置かれ、その黒いスクリーンにベージュのカーペットがぼんやりと映り込んでいる。キャスター付きチェアが消えた場所のカーペットには、車輪の圧痕が四つ、くっきりと刻まれていた。


 フロアの手前、ドアを入ってすぐの小さなレセプションエリア。カウンターというよりは仕切り板に近いそれは、オフィスと同じベージュのカーペットの上に置かれていた。椅子もなく、案内パンフレットを並べていたラックも消え、カーペットの毛足だけが、何も載っていない場所の形を記憶するように、まっすぐ立ったままでいた。


 唯一残された黒革の回転椅子。田中はその背もたれに手を置いた。皮革の表面は冷たく、指先に微かな粉っぽさが伝わる。座面に体重を預けると、油圧シリンダーが小さく「シュッ」と空気を吐き出した。椅子がわずかに沈む。彼の背骨が背もたれの曲線に沿って収まり、腰椎のあたりでランバーサポートの硬い抵抗を感じた。


 窓の外。向かいの高層ビル群が、夜空を分割するように立ち並んでいた。無数の窓がまばらに明るく、大半は既に暗い。窓のひとつで清掃員の影が動く。掃除機を押す人影の輪郭が、ブラインドの隙間からちらりと見え、すぐに消えた。さらに奥では、航空障害灯の赤いランプが規則的に点滅している。都市の光が空を染め、濃い紺色のベールがミッドタウンを覆っていた。


 だが田中の視線は、窓ガラスの表面に固定されていた。床から一・三メートルほどの位置。そこに、親指大の指紋がひとつ。皮脂が室内照明の光を屈折させ、指紋の隆線がぼんやりと浮かび上がっている。


 十数秒の後、彼は立ち上がった。椅子のシリンダーが再び「シュッ」と音を立て、座面が跳ね上がる。右手が内ポケットに伸びた。スーツの生地が擦れ合う摩擦音。指先がポケットの内側に触れると、布地の裏地は体温で生温かく、奥に金属の硬い感触があった。


 マスターキー。キーヘッドを親指と人差し指で挟み、引き出す。「MASTER 45FA3」の刻印が摩耗して薄くなっている。キーは彼の手の中で、体温を吸ってほんの少しだけ温まった。


 田中の足が動く。


 カーペットを踏む、柔らかく沈み込む音。レセプションの仕切りを回り込み、ドアへ向かう。ドアノブを引く。廊下へ出る。


 振り返らなかった。


 ドアが閉まる。ラッチが枠に収まる音。磨りガラスの向こうで、室内照明だけが灯り続けている。空のデスク、圧痕の残ったカーペット、窓ガラスの指紋。


 廊下。化粧パネルの天井が、間接照明の光を変わらず受けていた。隣のテナントのドアの向こうで、まだ人影が動いていた。


 エレベーターホールへ歩く。「1」を押す。橙色のランプが灯る。


 待つ。




 一階。扉が開く。


 エレベーターの密閉された空間から、吹き抜けの気積へ。四層吹き抜けのアトリウムが、ロビーの奥に広がっていた。天井に、ステンドグラスの天窓。幾何学的な模様が刻まれ、青、紫、黄、茶の色が、夜の外光を通して沈んだ輝きを放っている。


 床は赤みを帯びた白の渦巻き模様の大理石。磨き上げられた表面が、天窓の色を薄く反射している。立て看板が一枚、「WET FLOOR」の警告を無音で発していた。


 アトリウムの中心部、白い大理石のエリアには人がいなかった。ラッカー仕上げの高い柱が数本、コンコースから天窓まで垂直に伸び、真鍮のトリムが照明を細く反射していた。エスカレーターは静止し、ステップの金属面に照明が均等に並んで映り込んでいた。カフェのカウンターは閉まっている。シャッターが降り、アームチェアが卓上に逆さに積まれていた。




 セキュリティ/レセプションカウンター。


 アトリウムの入り口、エレベーターホールとの結節点に位置していた。濃灰色の御影石のカウンター、表面は水平に磨き上げられ、天窓からの淡い色彩とロビーの照明の白を同時に映し込んでいた。


 カウンターの内側に、何名かの警備員が座っていた。一人は黒人の五十代とおぼしき男。制服は紺、胸元に金属のバッジ。視線はモニターに向いていた。モニターの青白い光が、横顔の輪郭を縁取っている。


 田中が近づく。革靴が大理石を叩く音が、吹き抜けに反響した。


 警備員の視線がモニターから外れ、田中へ向く。


 田中の右手が内ポケットへ伸びる。指先がキーの頭部を挟む。引き出す。


 キーをカウンターに置く。


 真鍮が御影石に触れた瞬間、金属性の乾いた音が鳴った。小さく、しかし吹き抜けの静寂の中でよく通る音。「MASTER 45FA3」の刻印が、上を向いていた。


 警備員の手が伸びる。キーを引き寄せ、クリップボードのシートの上に置く。返却欄の、最後の記入の下。その空白に、キーが収まった。


 田中は踵を返した。


 革靴の音が、吹き抜けを横断する。アトリウムの柱が両脇を通り過ぎる。天窓のステンドグラスが、頭上で青と紫と茶の幾何学模様をたたえたまま、動かずにいた。


 五番街の入り口へ。ガラスの回転ドアを押した。


 冷気。


 冬のミッドタウンの夜気が、一瞬にして顔を包んだ。頬の皮膚が収縮する。鼻腔に入った空気が粘膜を刺激した。五番街の路面には、ヘッドライトとテールランプが赤と白の光の流れを作り、ビルの谷間を南北に動いていた。


 背後で回転ドアが止まった。


 アトリウムのステンドグラスが、外から見ると色の塊として窓枠の中に収まっていた。そのガラスの向こうで、静止したエスカレーターと、空の白大理石のエリアと、カウンターの警備員の横顔が、引き続き存在していた。


 田中の革靴が、五番街の歩道を叩き始めた。




 機内が減光された。照明は段階的に落とされ、人工の昼が人工の夜へと変換されていく過程を、田中は座席の背もたれに頭を預けたまま、網膜の奥で記録していた。


「Dinner, sir?」


 白いリネンのクロスがテーブルに広げられた。田中は金属製のフォークを手に取り、アルミ箔の縁に当てた。高周波の金属音が鳴った。箔を剥がす。閉じ込められていた熱気が、不自然に凝縮されたスパイスの香りと共に、田中の顔面を直撃した。水蒸気が彼の眼鏡の右レンズを、三秒間だけ白く曇らせた。視界が失われ、視界が戻る。田中は何も見ていなかった。


 食後のコーヒーが注がれた。田中はスプーンを握り、反時計回りに三回、円を描いた。彼は一口も飲まずに、その黒い水面を凝視した。


 黒い液体の表面には、機内の天井灯が反射していた。歪んだ光の像。彼自身の顔は映っていなかった。田中は視線を外した。


 機内照明がさらに落とされた。田中は目を閉じた。低周波の振動が、側頭部と座席のヘッドレストの接触面を通じて、頭蓋骨に直接伝わってくる。彼の頭蓋骨全体が、かすかに共鳴していた。


 田中は毛布を引き上げた。ポリエステル製の繊維が擦れ合い、微細な静電気が発生する。指先にチクリとした刺激が走り、暗闇の中で小さな青い火花が一度だけ爆ぜた。〇・一秒未満の発光。それから完全な暗闇が戻った。




 窓の外。乳白色の雲を突き抜けた瞬間、視界が切り替わった。夜から夜明け前へ。下界には、冷たく波打つ日本海が広がっている。鉛色の海面。時折、白波の泡が細い糸のように引いては消える。田中は窓枠に額をつけた。冷たかった。アルミニウムの冷たさが、額の皮膚から体温を奪っていく。


 窓の外には、九十九里の海岸線が等高線のように現れた。灰色の砂浜に、規則正しく押し寄せる波の列。ニューヨークの乾燥した茶褐色とは明らかに異なる、彩度の低い緑。密度の高い緑。水分を含んだ緑。


 滑走路が視界に入った。オレンジ色の導入灯が、霧雨の中に一列に並んでいる。霧雨がその光を滲ませ、一点だった光が、それぞれぼんやりした球体に変わっていた。機体は左右に数センチ単位の微細な修正を繰り返しながら、その光の列に引き寄せられていく。田中は膝の上で両手を組み、指の関節が白くなるまで力を込めた。自分がそうしていることに気づいたのは、三秒後だった。


 接地。ゴムがアスファルトを叩く「ギュッ」という短い悲鳴が二輪分、ほぼ同時に鳴った。続いて、逆噴射の轟音がキャビンを包み込んだ。田中の身体は前方に引っ張られ、シートベルトが再び胸部に食い込んだ。慣性。


 停止。エンジンが停止し、慣性による微動が完全に消失した。三万フィートを旅してきた機体が、地球の表面に完全に静止した。田中はベルトのバックルを外した。金属のラッチが外れる「パチン」という音が、静まり返った機内に冷たく響いた。


 彼は動かなかった。周囲の乗客が立ち上がり始め、荷物棚を開け、荷物を引き出し、通路に列を作り始めた。田中はそれを座ったまま見ていた。誰も彼を急かさなかった。


窓の外では、霧雨が誘導路を濡らし続けていた。

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