第一章 予定利率
一九九〇年。
業務本部のフロアでは、三台の大型空調が常に一定の低周波を放っていた。窓の外、千代田区のビル群が反射する西日が、ブラインドの隙間から等間隔の縞模様をカーペットに落としている。縞の幅はおよそ五センチ。光の帯と影の帯が交互に並び、カーペットの毛足の向きによって、光の当たる角度がわずかに変わっていた。ブラインドのスラットは、午後の角度でそれぞれ微細に撓んでいた。一枚だけ、端が歪んで隣のスラットに重なっていた。
田中は、電卓のプラスチック製のキーを叩いていた。液晶画面に表示された「7.8」という数字が、蛍光灯の下で微かに明滅している。キーを押すたびに、プラスチックが沈み込む微細な抵抗が指先に伝わった。積算キーの表面だけが、他のキーよりわずかに摩耗していた。田中はそのキーを、今日だけで何度押したか数えていなかった。
隣の席では、課長補佐の山本が受話器を耳に当てたまま、微動だにせず壁のグラフを見つめていた。グラフは折れ線が三本。青、赤、黒。それぞれの線が右肩上がりに伸び、直近の数値で三本が交差しかけていた。山本の受話器を持つ手の甲に、細い腱が浮き出ていた。受話器のコードが、デスクの縁で緩いループを作っていた。
「……承知しました。検討します」
山本が受話器を置いた。プラスチックが台座に衝突する乾いた音が、一度だけ鳴った。山本はそのまま動かなかった。視線がグラフの上で止まっていた。
フロアの入り口に、人影が現れた。
地方から集まった支社長たちが数名、静かに立っていた。全員が上質なスーツを着用していた。一人の胸ポケットには、白いチーフが三角に折られて差し込まれていた。別の一人は、右手に薄い革のフォルダーを提げていた。フォルダーの表面に、蛍光灯の光が細く反射していた。彼らは声を荒らげることはなかった。フロアを一瞥し、それから廊下の奥へ向かった。革靴の音が廊下を進み、やがて聞こえなくなった。突き当たりの本部長室のドアが、遠くで開き、閉まった。
田中は電卓のキーを叩き続けた。液晶の数字が更新されるたびに、田中は一度だけそれを見た。フロアの電話が鳴った。誰かが取った。低い声で何かを答え、受話器を置いた。また別の電話が鳴った。フロアのどこかで、コピー機が起動した。紙を送る機械音が数秒続き、止まった。
しばらくして、廊下の奥でドアが開く音がした。革靴の音が戻ってきた。支社長たちがフロアの入り口を通り過ぎた。誰も口を開かなかった。革フォルダーを提げた男が、入り口の角で一度だけ立ち止まった。それから歩き出した。最後の一人が角を曲まり、人影が消えた。
フロアに、静寂が戻った。空調の低い唸りだけが続いていた。
田中は電卓のキーを叩いた。液晶の数字が更新された。隣の列のデスクで、誰かがキャップを外す音がした。ボールペンのキャップだった。それがデスクの上に置かれる音が続いた。ページをめくる音がした。それから、また静かになった。
窓の外では、西日がビルの上層階から少しずつ退いていた。影がビルの壁面を下へ向かって動いていた。動いているのか、止まっているのか、一瞬では判断できない速度だった。田中はその壁面を一秒だけ見た。それから液晶の数字に視線を戻した。
フロアの入り口近くのデスクで、電話が鳴った。二回鳴って、止まった。誰も取らなかった。しばらくして、また鳴り始めた。今度は誰かが取った。低い声が短く何かを言い、受話器を置いた。置く音が、フロアの端まで届いた。
田中の隣の列に座る男が、引き出しを開けた。金属レールが擦れる音がした。中から何かを取り出した。引き出しが閉まった。男はそれをデスクの上に置いた。湯呑みだった。湯気は出ていなかった。男は湯呑みを両手で包んだまま、壁のグラフを見ていた。グラフの折れ線は、直近の数値で急角度に跳ね上がっていた。男の両手が、湯呑みの表面でわずかに動いた。温度を確かめるように、一度だけ。
午後二時十五分。
山本が席を立った。業務部長と課長連数名が、山本を囲むようにして奥の会議室へ向かった。革靴と、一足だけ底の薄い靴の音が廊下を進んだ。会議室のドアが開き、人影が吸い込まれ、閉まった。ラッチが枠に収まる音が、フロアまで届いた。
田中は電卓の積算ボタンを押した。液晶の数字が更新された。田中はその数字を見た。それから再びキーを叩いた。
窓の外で、西日がビルの壁面から消えた。フロアの蛍光灯の白さが、相対的に強くなった。カーペットに落ちていた縞模様が消え、フロア全体が均一な白さに覆われた。
三時間後。
会議室のドアが開いた。
最初に出てきたのは、業務部長と課長連だった。部長の顔が赤かった。首筋まで赤みが広がっていた。耳の縁まで、赤みが届いていた。課長の一人はネクタイを指で緩めながら歩いていた。指先がノットの裏側に入り込み、生地を引き下げた。別の課長は口を一文字に結んでいた。三人目の課長は、手元のメモ帳を脇に抱えたまま、フロアを横切って自分の席に戻った。メモ帳の表紙が、歩く振動に合わせてわずかに揺れていた。彼は席に着くと、メモ帳をデスクの上に置いた。置く音がした。それから動かなかった。
最後に、山本が出てきた。
彼の歩調は以前より数センチ短かった。革靴がカーペットを踏む音に、粘りつくような摩擦が混じっていた。山本は田中の隣の席に戻り、椅子を引いた。椅子のキャスターがカーペットの毛足を押しつぶす音がした。彼は座ると、一度だけ深く息を吐いた。湿った息だった。胸が、吐き出しの後で小さく沈んだ。
それから立ち上がった。
ホワイトボードの前に立ち、青いマジックのキャップを外した。キャップを外す音が、小さく鳴った。マジックの先端がホワイトボードの表面に触れた。ペン先が滑る乾いた音が、フロアに広がった。
「スーパーふえる君」
文字の線が、端の方で掠れていた。インクが薄くなりかけていた。山本はマジックを持ち直し、その下に数字を書き込んだ。新たな予定利率だった。数字の最後の桁を書き終えたとき、マジックの先端がホワイトボードの上で一瞬止まった。インクが一点に溜まり、小さな滲みができた。
「予定利率を引き上げる。確定の数字で行く」
山本はマジックのキャップを戻した。カチリと音が鳴った。
フロアに、静かな変化が広がった。入り口近くに立っていた支社長たちはもういなかった。フロアのどこかで、受話器を置く音がした。椅子のキャスターが動く音がした。誰かがページをめくった。それからまた、電卓のキーを叩く音と、空調の低い唸りだけが残った。
田中は電卓のキーを一度押した。液晶に新しい数字が表示された。田中はその数字を見た。それから電卓をデスクの端に置いた。電卓の底面が、デスクの表面に触れる音が、小さく鳴った。
一週間後。財務本部。
廊下を歩くと、左右に重いドアが並んでいた。どのドアにも、役職と名前を記した金属プレートが掲げられていた。プレートの表面は均一に磨かれており、廊下の間接照明を細く反射していた。田中はその廊下の突き当たりに向かった。革靴の底が、カーペットを踏むたびに沈み込んだ。一番奥のドア。プレートには「本部長 塚田」とあった。プレートの縁が、他のプレートよりわずかに厚かった。
ノックした。二回。
「どうぞ」
ドアを開けた。室内は静かだった。窓のブラインドが半分だけ下ろされ、午後の光が斜めに差し込んでいた。光の帯が、デスクの端から床にかけて斜めに伸びていた。光の中に、微細な塵が浮いていた。塵はほとんど動かなかった。デスクの上には書類の束と、重厚な灰皿だけが置かれていた。灰皿は使われた形跡がなかった。表面が均一に光っていた。その横に、万年筆が一本、書類の上に置かれていた。
田中は椅子を引いた。合成皮革の座面が、体重を受けてわずかに沈んだ。指先が、肘掛けの表面を確認した。
塚田が書類から目を離さずに言った。
「実際に運用したこともないこの利率を、どう担保するつもりだ」
声は低く、部屋の壁に吸い込まれた。塚田の視線は、書類の上で動かなかった。
田中は、指先で椅子の合成皮革を押さえていた。
「業務企画部の若手は全員、反対していました。ですが、中堅層がこぞって賛成に回りました。声は届きませんでした」
塚田は答えなかった。書類の上に置いた万年筆を、一度だけノックした。金属音が、静まり返った部屋に響いた。それから、また静かになった。塵が、光の帯の中で、ほんの少しだけ動いた。
田中は一礼し、部屋を出た。廊下の間接照明が、化粧パネルの天井を柔らかく照らしていた。田中は廊下を歩いた。革靴の底が、カーペットを踏むたびに沈み込んだ。
廊下の途中に、掲示板があった。木製の枠に、コルクが張られていた。そこに数枚の紙が、画鋲で留められていた。一枚は社内報だった。表紙に、社員旅行の集合写真が印刷されていた。写真の中の人間は全員、同じ方向を向いていた。前列の端に、画鋲が一本、写真の端を斜めに貫いていた。その画鋲の頭が、廊下の照明を細く反射していた。
その隣に、手書きの紙が一枚あった。罫線の引かれた紙に、インクで文字が書かれていた。「資産運用課 石井君 ご結婚おめでとうございます」とあった。名前の部分のインクが、他の文字より濃かった。書いた人間が、その部分だけ筆圧を強めたのか、あるいはペン先を一度止めたのか、田中には判断できなかった。紙の下端が、空調の風でわずかに揺れた。それから、また静止した。
田中は廊下の突き当たりまで歩いた。エレベーターのボタンを押した。橙色のランプが灯った。廊下の奥で、エレベーターが動き始める低い機械音がした。田中はその音が近づいてくるのを、廊下の壁に背を向けたまま待った。




